このところ、日がな一日、技術的作業に没頭して、あっと言う間に日が暮れてしまった。今日の成果は "まずまず" であっただろう。途中、投げ出すことになりかねない、とも心配していたものだが、まさに "粘り" の姿勢でスルーできた。
"粘り" というのは、幾分 "スポ根" 的な雰囲気があり、ただただ押しまくるといったニュアンスがある。しかし、 "粘り" の本質は、脳内において集中的な "試行錯誤" をすること、つまり、これまでに蓄積された知識や経験といったものを総動員させて、ヒントを得たり、それに基づいてチェックゃテストをしてみたりという働きかけにある。
このプロセスにおいては、ノウハウというほどのものではないが、過去の経験がかなり重要な役割を果たすようである。とりわけ、過去の失敗経験が有効な働きをするようである。また、有効に働く材料は、決して明瞭なかたちの知識だけというよりも、明瞭さを欠くものの、その明瞭なラインの周辺で動員されて右往左往したに違いない思考や思いや感覚などが意外と "助っ人" になるようだ。それらをひっくるめて "経験" と言ってみたいのである。
従って、技術的な事柄でも、歳をとることは必ずしもマイナス要素ばかりでもなさそうである。
ほぼ、作業が順調に進み始めた頃、自宅の家内から電話が入った。
今日は、先日も書いた "子猫のみみちゃん" を約束した家庭に貰ってもらう日だったのである。家内と息子が、先方の家庭に連れて行き、無事、引き渡すことが終わったというのであった。
電話の口調の家内は、やや残念というか寂しいというか、そんな心境を滲ませていたようである。
「だって三ヶ月も世話をしてくるとねっ、情が移らない方が不思議よね……」と。
自分とて、しっかりと情が移ってしまっていた。まして、この苦しい最中の時期に、愛くるしい表情や動作で気持ちを紛らわせてくれた子猫だけに……。
いつも朝一番でケージから出して部屋の中に解放してやるのが自分の役割であったが、今朝は、寒いとみえて布団の中に潜りたがったものだが、あえて拒まずに脇の下辺りに潜らせてやったものである。
先日にも書いたとおり、先方の家庭には面倒を見たがっている一人っ子の小学生の男の子がいて、今日の日を待ち焦がれて何か "おもちゃ" まで作ってあげているとか、あるいは、母親の弁では、 "妹" ができたような喜びようだとも聞いている。
運が悪くて野良猫という辛い境遇のままで命を長らえる猫も決して少なくないわけであり、そんなもう片方を思えば、待ち焦がれてもらえる "みみちゃん" は、ラッキーであることに間違いはないはずだ。
わが家の方の、何とはなしの "寂しさ" とは裏腹に、きっと、 "みみちゃん" は可愛がってもらえるに違いないと思うことにしている…… (2009.02.07)
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