さすがに現時点の自分は "集中モード" に突入している、といった感じがする。 "集中セミナー" かなんぞに "身柄を拘束" されてでもいるかのような過ごしぶりである。
ここ何日かはそうなのだが、事務所に来ると、何はさておきすぐに前日の続きの作業に取り掛かる。するといつの間にか昼食時になる。そこで、昼食もそそくさと済ませてしまうと再び気掛かりな作業へと戻る。
そうこうしているうちに、午後4、5時となって、そろそろ "日誌" に手をつける時間かな、と我に返ったようになる。こんな按配なのである。
一頃のように、社会や時代の様子が気になってしばしば新聞社サイトなどを覗くようなこともなくなってしまった。時間が惜しいのと、どうせ "前向き" なニュースなんぞがあるわけがないご時世なので、十分それでいいと思っている。
いつぞやもここに書いたように、今のような時代環境にあっては、その変化の一々に振り回されていてはまずい。むしろ、そんなことに脇目もふらずにやるべきことに精を出し、没頭し切る。それが最良の過ごし方だと書いたはずだが、まさにそのとおりを実践することになっている。
おかげで、無用な "否定的感情" が起き上がってくる隙間もないようであり、精神衛生状態は決して悪くない。その分、思考力に多少の弾みがついているかもしれない。
そんなことを思うのは、 "勘" が幾分冴えてきたかな、と感じたりするからである。
"勘" というのは、作業課題上で躓くことになる案件に対して、こうしてみてはどうか、こんなことを試してみてはどうか、というような衝動(閃きとまでは言わない)が自然に生じてくるということなのである。そして、意外とその結果が奏功するのだ。
"勘" というと、眉をしかめる向きもあろうが、自分は結構重視している。これもまた、脳活動の貴重な働きなのだろうと考えている。つまり、考えるということは、 "意識して" 考えるだけが全てなのではなく、 "無意識" な状態でも脳は "自己調整" をしているようである。とくに、睡眠中に、脳はご当人の意識から離れて、黙々と "徹夜残業" をしていそうなのである。
だから、前夜には思考が混乱して皆目見当のつかなかったことが、翌朝にはなぜだかいろいろな対策案が浮かび上がったりする(こともある)。これなぞは、脳が、自分では知らないかたちで "自己調整" をしているとしか言いようがない。
また、明確な動機があるわけではないようなかたちで、案件の打開への試行錯誤が促されるという文脈もまた、脳というものは "意識して" 考えるだけのものではないな、と思わされる理由なのである。
ということで、幸いにも "根を詰める" という時間をようやく手にしたふうであるが、片方ではいささか身体の方が疲れ気味となっている気配である。明日の休日は、身体の方に休息を与えるべきなのかと…… (2009.02.10)
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