自分の仕事の "進捗" がパッとしないので、情けなくなってくる。とにかく前進していることは確かなのだが、想定する目標イメージに対していかにも遅れをとっている。
単純な力仕事ではないのだからとか、品質を考慮し過ぎているからだとか、いろいろと弁解染みたことは思い浮かぶ。
ついでだから、この "進捗遅れ感" とでもいうべきものを槍玉に挙げて書いてみようかと思う。
多分、自分の "仕事やその他やるべきこと" に関して、この "進捗遅れ感" を感じていない人は少ないのではなかろうか。ひょっとしたら、 "仕事やその他やるべきこと" のみならず、 "やりたいこと" についても同様なのかもしれない。
とにかく、なぜ自分はこんなにも "処理能力" が劣っているのかと、嫌というほど感じさせられるのが "現代環境" というものなのであろう。
単純な力仕事ではないのだからとか、品質を考慮し過ぎているからだとか、いろいろと弁解染みたことは思い浮かぶ。
ついでだから、この "進捗遅れ感" とでもいうべきものを槍玉に挙げて書いてみようかと思う。
多分、自分の "仕事やその他やるべきこと" に関して、この "進捗遅れ感" を感じていない人は少ないのではなかろうか。ひょっとしたら、 "仕事やその他やるべきこと" のみならず、 "やりたいこと" についても同様なのかもしれない。
とにかく、なぜ自分はこんなにも "処理能力" が劣っているのかと、嫌というほど感じさせられるのが "現代環境" というものなのであろう。
そうなのである。この "現代環境" こそが曲者(くせもの)なのであり、それがわれわれを取り囲んでヤイノヤイノと "スピード感" を埋め込んでいるはずなのである。
元来、 "時間" という存在はまったくもって "個人" の専有物であるはずだ。いや、込み入った、文明論レベルの時間論に立ち寄っているひまはないが、要するに "秒針の刻み" が時間の基本的構成要素ではなく、意識と身体全体側の方にしか "時の流れ" を認識する手立てはないのだと思う。
それが、現状では、 "秒針の刻み" という物理的変化にかこつけて全人類的な "共同体幻想" を作り上げているかのようだ。
そして、 "幻想" はさらに別の "幻想" をでっち上げて行き、それらが累積して行くとその累積構成物が実体そのものであるかのような "本末転倒" が引き起こされる。
おそらく、元来は自分自身のものであったはずの "時間" というものが、もはや自分自身から離れて、自分の外側の動きとしてしか感じられなくなったのは、こうした理屈なのではないかと思う。
横道に逸れたくないのだけれど、ひとつだけ "関連質問" 的に言い添えると、北朝鮮によるあの "拉致問題" が例となる。多分、拉致家族の方々にとっては、家族が拉致されてからというもの、 "時間" は止まっているはずである。 "時間" は過ぎて行きようがないのではなかろうか。
この点は、凶悪殺人犯によって家族を失った方にとっても同様のことが言えそうだ。何十年と経とうが、被害者家族に "時効" なぞあり得ないに違いない。ところが、現世の社会は、社会という "累積構成物" の都合(秩序?)で、 "時効制度" を執行する。
また、北朝鮮による "拉致問題" も、関係者たちの "時間" 感覚などは完璧に脇に置かれ続け、国際関係などの "累積構成物" にとっての時間のみが優先され続ける。
事ほど左様に、個人たちから "時間" という存在を "召し上げて" しまった、社会とか時代とかという巨大な "累積構成物" は、どこへ向かうのかなどという素朴な疑問を踏みにじりながら、とにかく走るために走る......。
きっと、そうした "エンドレス・ランニング・マシーン" こそが、人々を何によらず "急かせる" 張本人なのであろう...... (2009.03.13)
元来、 "時間" という存在はまったくもって "個人" の専有物であるはずだ。いや、込み入った、文明論レベルの時間論に立ち寄っているひまはないが、要するに "秒針の刻み" が時間の基本的構成要素ではなく、意識と身体全体側の方にしか "時の流れ" を認識する手立てはないのだと思う。
それが、現状では、 "秒針の刻み" という物理的変化にかこつけて全人類的な "共同体幻想" を作り上げているかのようだ。
そして、 "幻想" はさらに別の "幻想" をでっち上げて行き、それらが累積して行くとその累積構成物が実体そのものであるかのような "本末転倒" が引き起こされる。
おそらく、元来は自分自身のものであったはずの "時間" というものが、もはや自分自身から離れて、自分の外側の動きとしてしか感じられなくなったのは、こうした理屈なのではないかと思う。
横道に逸れたくないのだけれど、ひとつだけ "関連質問" 的に言い添えると、北朝鮮によるあの "拉致問題" が例となる。多分、拉致家族の方々にとっては、家族が拉致されてからというもの、 "時間" は止まっているはずである。 "時間" は過ぎて行きようがないのではなかろうか。
この点は、凶悪殺人犯によって家族を失った方にとっても同様のことが言えそうだ。何十年と経とうが、被害者家族に "時効" なぞあり得ないに違いない。ところが、現世の社会は、社会という "累積構成物" の都合(秩序?)で、 "時効制度" を執行する。
また、北朝鮮による "拉致問題" も、関係者たちの "時間" 感覚などは完璧に脇に置かれ続け、国際関係などの "累積構成物" にとっての時間のみが優先され続ける。
事ほど左様に、個人たちから "時間" という存在を "召し上げて" しまった、社会とか時代とかという巨大な "累積構成物" は、どこへ向かうのかなどという素朴な疑問を踏みにじりながら、とにかく走るために走る......。
きっと、そうした "エンドレス・ランニング・マシーン" こそが、人々を何によらず "急かせる" 張本人なのであろう...... (2009.03.13)
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