"天邪鬼" が、ふと "いとおしく" 思える気分となった。何とも、はや "天邪鬼" なことである。
ちなみに、その言葉の意味はというと、<わざと人の言に逆らって、片意地を通す者。>とあり、さらに<昔話に出てくる悪者。人に逆らい、人の邪魔をする。天探女(あまのさぐめ)の系統を引くといわれるが、変形が多い。仁王や四天王の像がふまえている小鬼。>(広辞苑より)
また、 "天邪鬼" のメジャーデビューは "瓜子姫" とかいう説話だそうだ。あんまり覚えがないが次のような話らしい。
<民間説話の一。老婆が川で拾った瓜から生まれた瓜子姫が、美しく成長して殿様へ嫁入るためのしたくに毎日機(はた)を織る。そこへ天邪鬼が現れ、姫に化けて嫁入りしようとするが、すずめ(その他の鳥)の知らせで露見し、無事に姫は嫁入りする。>
この話からすれば、やっぱり "天邪鬼" の方が "瓜子姫" よりもおかしくて、興味深い。一番いただけない(?)のは "すずめ(その他の鳥)" だったりして......。そんなワケ知り顔をして "御注進" に及んだりしてはいけませんよ、とでも言いたいような気になる。
ちなみに、その言葉の意味はというと、<わざと人の言に逆らって、片意地を通す者。>とあり、さらに<昔話に出てくる悪者。人に逆らい、人の邪魔をする。天探女(あまのさぐめ)の系統を引くといわれるが、変形が多い。仁王や四天王の像がふまえている小鬼。>(広辞苑より)
また、 "天邪鬼" のメジャーデビューは "瓜子姫" とかいう説話だそうだ。あんまり覚えがないが次のような話らしい。
<民間説話の一。老婆が川で拾った瓜から生まれた瓜子姫が、美しく成長して殿様へ嫁入るためのしたくに毎日機(はた)を織る。そこへ天邪鬼が現れ、姫に化けて嫁入りしようとするが、すずめ(その他の鳥)の知らせで露見し、無事に姫は嫁入りする。>
この話からすれば、やっぱり "天邪鬼" の方が "瓜子姫" よりもおかしくて、興味深い。一番いただけない(?)のは "すずめ(その他の鳥)" だったりして......。そんなワケ知り顔をして "御注進" に及んだりしてはいけませんよ、とでも言いたいような気になる。
説話講釈はさておいて、どうして今 "天邪鬼" なのかである。
さほど深い意味を託しているのでは毛頭ないが、今の世の中、あまりにも "右に倣え" が多過ぎると思えるからだ。しかも、言ってみればそれが "欲得につながる" と計算しているようだからなおのこと嫌になる。 "波風が立たぬ" ためと言われてきたものだったが、すっかり "欲得につながる" との計算へと雪崩れ込んだ気配がありそうだ。
主体性が無いとかどうのという次元の話ではなさそうだ。 "右に倣う" ことの方が "得" をするようだからそうするというだけのことのようである。
多分、身の回りの事柄の大半に "計算可能性" とやらが満ち満ちてきたからということなのかもしれない。
そして、人々の価値観が、計量可能な基準で占められる、いや金額換算によるものへと置き換えられてしまったから、誰もが画一的な価値判断をするようになったのかもしれない。 "右に倣え" の実態は、そんなところに横たわっているのかもしれない。
だから、この時代に "天邪鬼" であることを推奨するのは、カネ勘定(感情)から離れた判断を推奨することでもあるわけだ。たとえ、ポジティブな理念や感情でなくとも、この際いいことにしよう。ネガティブな恨み、つらみ、怨念でも、まあ目をつぶろう。カネ勘定(感情)が動機となっていないのであれば、やがて芽が出て、花が咲かないとも限らないからだ。カネ勘定(感情)のロジックだけは、どこまで行っても "量的拡大" 路線のレールが敷かれていて、大空に飛翔するような "質的変化" なんてものはないはずだろう。
この閉塞した時代環境にあっては、 "右に倣え" を努めてみても大したことにはならないのかもしれないじゃないか。むしろ、どこかで "天邪鬼" 精神というか、根性を育み、損得勘定ではない自分自身のオリジナル価値観でやってみるのも悪くない、と。たとえ、すずめに告げ口されようが、仁王や四天王に踏みつけられようが、どこ吹く風の心境を持ちたいものである...... (2009.03.29)
さほど深い意味を託しているのでは毛頭ないが、今の世の中、あまりにも "右に倣え" が多過ぎると思えるからだ。しかも、言ってみればそれが "欲得につながる" と計算しているようだからなおのこと嫌になる。 "波風が立たぬ" ためと言われてきたものだったが、すっかり "欲得につながる" との計算へと雪崩れ込んだ気配がありそうだ。
主体性が無いとかどうのという次元の話ではなさそうだ。 "右に倣う" ことの方が "得" をするようだからそうするというだけのことのようである。
多分、身の回りの事柄の大半に "計算可能性" とやらが満ち満ちてきたからということなのかもしれない。
そして、人々の価値観が、計量可能な基準で占められる、いや金額換算によるものへと置き換えられてしまったから、誰もが画一的な価値判断をするようになったのかもしれない。 "右に倣え" の実態は、そんなところに横たわっているのかもしれない。
だから、この時代に "天邪鬼" であることを推奨するのは、カネ勘定(感情)から離れた判断を推奨することでもあるわけだ。たとえ、ポジティブな理念や感情でなくとも、この際いいことにしよう。ネガティブな恨み、つらみ、怨念でも、まあ目をつぶろう。カネ勘定(感情)が動機となっていないのであれば、やがて芽が出て、花が咲かないとも限らないからだ。カネ勘定(感情)のロジックだけは、どこまで行っても "量的拡大" 路線のレールが敷かれていて、大空に飛翔するような "質的変化" なんてものはないはずだろう。
この閉塞した時代環境にあっては、 "右に倣え" を努めてみても大したことにはならないのかもしれないじゃないか。むしろ、どこかで "天邪鬼" 精神というか、根性を育み、損得勘定ではない自分自身のオリジナル価値観でやってみるのも悪くない、と。たとえ、すずめに告げ口されようが、仁王や四天王に踏みつけられようが、どこ吹く風の心境を持ちたいものである...... (2009.03.29)
コメントする