ソフトウェア・アプリケーションには、それをディスプレー画面上で走らせる際に概観や使い勝手を変更できるものがある。ソフト機能の実質に変わりはないのだが、 "包装紙" が異なるとでも言うべきか。
そうした "包装紙" のことを "スキン(skin)" と言うそうだ。
<アプリケーションソフトの外見に関する情報を格納したファイル。
ソフトによるが、スキンは複数のファイルからなっており、スキンの機能を定義するファイルや画像ファイルが1つのスキンに含まれている。
スキンを使用するには、スキンを適用するアプリケーションソフト側の対応が必要で、このアプリケーション側の対応機能のことは「スキン機能」などと呼ばれる。>(IT用語辞典 e-Words のサイトより)
自分も以前、<Windows Media Player>を使う際に、「表示」のメニューで<スキンモード>だの<スキンセレクタ>などというものに遭遇し、何だこりゃ? と首をかしげた覚えがある。
ほかのアプリケーション、DVD Player などの "画像系ソフト" の操作パネルであったかもしれないが、そこでも同じようなチョイスがあったようだ。
要するに、 "画像系ソフト" を楽しむ者向けには、機能だけを提供するのではなく、画面の周囲環境であったり、操作パネルであったりというもののデザインセットをも好みに応じて提供する、というもののようである。
そうした "包装紙" のことを "スキン(skin)" と言うそうだ。
<アプリケーションソフトの外見に関する情報を格納したファイル。
ソフトによるが、スキンは複数のファイルからなっており、スキンの機能を定義するファイルや画像ファイルが1つのスキンに含まれている。
スキンを使用するには、スキンを適用するアプリケーションソフト側の対応が必要で、このアプリケーション側の対応機能のことは「スキン機能」などと呼ばれる。>(IT用語辞典 e-Words のサイトより)
自分も以前、<Windows Media Player>を使う際に、「表示」のメニューで<スキンモード>だの<スキンセレクタ>などというものに遭遇し、何だこりゃ? と首をかしげた覚えがある。
ほかのアプリケーション、DVD Player などの "画像系ソフト" の操作パネルであったかもしれないが、そこでも同じようなチョイスがあったようだ。
要するに、 "画像系ソフト" を楽しむ者向けには、機能だけを提供するのではなく、画面の周囲環境であったり、操作パネルであったりというもののデザインセットをも好みに応じて提供する、というもののようである。
まあ、こうした発想は特に新規性のあるものだとは思わなかったが、それを称して "スキン(skin)" とすることに何かヘンな感触があった。
自分が唐突にイメージしたのは、 "人の顔の皮" とでもいうものであり、映画やドラマなどで "変装" をした者が自分の正体を現す際に、ベリッと剥がすようなそんなイメージだったのである。
つまり、 "スキン(skin)" という言葉からは、 "仮装" とか "変装" という、どっちにしても正体を隠すものというニュアンスを感じ、それが打ち消せなかったわけだ。
しかも、 "仮装" にはハロウィンなどに見られるような楽しげなものもあるわけだが、どうも "スキン(skin)" と称されると、巧みに隠す、という側面を強く印象づけられてしまうようなのだ。
それで何が言いたいのかというと、現代という時代環境は、時代や社会全体が丸ごと何がしかの "スキン(skin)" で覆い尽くされているような気がしてならないのである。
言うまでもなく、その "スキン(skin)" 機能の一翼を担っているのは "マス・メディア" 以外ではなかろう。
特にTV番組が相変わらず醸し出している空々しい雰囲気には閉口してしまう。代表格はCMということになろうか。確かに、CMの雰囲気が時代環境のこの重っ苦しい状況を直裁に反映していたならば、決して購買意欲をそそらないに違いない。
しかし、逆に、そんな "トイレの100ワット" のような明るさの光景なりメッセージは、生身の視聴者の頭や心のどこに届くものだろうか、と訝しく思わざるを得ない。暗い時代だからこそ明るさを強調しているという理屈も説得力がなさそうである。
要するに、視聴者たちの生活実感とはまるで異なる雰囲気を押し付けているようであり、それが"スキン(skin)" で世界を覆い尽くそうとしているかのように思えたりするわけなのである...... (2009.03.24)
自分が唐突にイメージしたのは、 "人の顔の皮" とでもいうものであり、映画やドラマなどで "変装" をした者が自分の正体を現す際に、ベリッと剥がすようなそんなイメージだったのである。
つまり、 "スキン(skin)" という言葉からは、 "仮装" とか "変装" という、どっちにしても正体を隠すものというニュアンスを感じ、それが打ち消せなかったわけだ。
しかも、 "仮装" にはハロウィンなどに見られるような楽しげなものもあるわけだが、どうも "スキン(skin)" と称されると、巧みに隠す、という側面を強く印象づけられてしまうようなのだ。
それで何が言いたいのかというと、現代という時代環境は、時代や社会全体が丸ごと何がしかの "スキン(skin)" で覆い尽くされているような気がしてならないのである。
言うまでもなく、その "スキン(skin)" 機能の一翼を担っているのは "マス・メディア" 以外ではなかろう。
特にTV番組が相変わらず醸し出している空々しい雰囲気には閉口してしまう。代表格はCMということになろうか。確かに、CMの雰囲気が時代環境のこの重っ苦しい状況を直裁に反映していたならば、決して購買意欲をそそらないに違いない。
しかし、逆に、そんな "トイレの100ワット" のような明るさの光景なりメッセージは、生身の視聴者の頭や心のどこに届くものだろうか、と訝しく思わざるを得ない。暗い時代だからこそ明るさを強調しているという理屈も説得力がなさそうである。
要するに、視聴者たちの生活実感とはまるで異なる雰囲気を押し付けているようであり、それが"スキン(skin)" で世界を覆い尽くそうとしているかのように思えたりするわけなのである...... (2009.03.24)
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