<六十の手習い>とか<八十の手習い>という謂(いわ)れ、あるいは "Never too old to learn." というフレーズがあるのはよく知られている。
現に、多くの熟年世代の人たちがいろいろなことにチャレンジしている話題を耳にする。また、その受け皿もさまざまな形で用意されているようにも見かける。いよいよ高齢化社会が眼前の出来事となっているわけなので、もっと重要視されていいはずのことなのだろうと思うわけである。
"学ぶこと(learn,study,training......)" は、本質的には、他の目的を必要としない "自己目的" 的な喜びなのだろうとは思うけれど、現実的には、 "動機づけ" や "インセンティブ(insentive,誘因)" が必要となるのかもしれない。ちょっとそんな側面のことを考えてみようかと思う。
その最も一般的でかつ強引なのは、言うまでもなく "金銭的動機" なのであろう。長年そうした環境で生きてきたことも理由だし、また、現に生活している環境はますます "市場経済" 的傾向を強めている。さらに、熟年者の生活にとっても、昨今の貧困な社会福祉環境は、 "金銭的" な困窮を強く自覚させるものであるだけに、何をするにせよ "金銭的動機" を意識させることになっていそうだ。
現に、多くの熟年世代の人たちがいろいろなことにチャレンジしている話題を耳にする。また、その受け皿もさまざまな形で用意されているようにも見かける。いよいよ高齢化社会が眼前の出来事となっているわけなので、もっと重要視されていいはずのことなのだろうと思うわけである。
"学ぶこと(learn,study,training......)" は、本質的には、他の目的を必要としない "自己目的" 的な喜びなのだろうとは思うけれど、現実的には、 "動機づけ" や "インセンティブ(insentive,誘因)" が必要となるのかもしれない。ちょっとそんな側面のことを考えてみようかと思う。
その最も一般的でかつ強引なのは、言うまでもなく "金銭的動機" なのであろう。長年そうした環境で生きてきたことも理由だし、また、現に生活している環境はますます "市場経済" 的傾向を強めている。さらに、熟年者の生活にとっても、昨今の貧困な社会福祉環境は、 "金銭的" な困窮を強く自覚させるものであるだけに、何をするにせよ "金銭的動機" を意識させることになっていそうだ。
となると、 "学ぶこと(learn,study,training......)" に対しても、何らかの "金銭的動機" を想定しがちとなりそうだ。少しでも家計の足しになるような "学び方" をしたい、というようにである。これは止むを得ないことなのだろうとつくづく思う。
ただ、こうした "金銭的動機" を優先させた "学ぶこと" となると、明らかに冒頭の<六十の手習い>とか "Never too old to learn." とかという緩やかな視点での話とは異なって、熾烈な課題となってくるはずである。
というのも、 "市場経済" の原理は、商品提供者の年齢問題や個人的環境などを眼中に入れていないからである。熟年者といえども、現役の若い世代の商品提供者と互角で競わなければならないからである。
とは言っても、熟年者たちの挑戦意欲に水をかけているのではない。要は、高齢にて "学ぶこと" に関する "自分なりの動機" を鮮明にさせた方がいいだろうと強調したいだけのことである。 "金銭的・職業的動機" を優先させるならば、若い世代と互角に競い合うために、熾烈な "学び方" を覚悟して進めればいいことだからだ。
これを曖昧にさせていると、自身の思い込みはどうあろうと、結局は、 "趣味の範疇" での出来事以外ではなくなるに違いないはずである。
とかく、熟年者たちの "学ぶ" 意欲をビジネスにつなげようとする者たちは、あえてこの辺の "境目" を曖昧としながら、 "金銭的報酬" への期待感を助長する手口を使うようでもある。
現在、 "学ぶこと" を現役の職務としている連中も、決して "聖域" なんぞでマイペースでやれているわけではなさそうである。まさに強引な "市場経済" の原理にかく乱されながら、熾烈な "業績主義" の環境で四苦八苦しているという。それはそれで、科学や学問の世界の将来が懸念されもするわけだが今はおく。
これに対して、在野の、そして熟年者たちの "学ぶこと" に関しては、まったく別の "自由な原理" が貫かれてもいいのかもしれないと思っている。
"学ぶこと" が本来持っている "自己目的" 的な喜びのことなのであり、また、極端な表現をするならば、<朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり>(論語)という絶対自由の境地のことことなのである。まさにこれこそが、 "Student" ( Study[学ぶ] + ent[人] )なのではなかろうか、と...... (2009.04.15)
ただ、こうした "金銭的動機" を優先させた "学ぶこと" となると、明らかに冒頭の<六十の手習い>とか "Never too old to learn." とかという緩やかな視点での話とは異なって、熾烈な課題となってくるはずである。
というのも、 "市場経済" の原理は、商品提供者の年齢問題や個人的環境などを眼中に入れていないからである。熟年者といえども、現役の若い世代の商品提供者と互角で競わなければならないからである。
とは言っても、熟年者たちの挑戦意欲に水をかけているのではない。要は、高齢にて "学ぶこと" に関する "自分なりの動機" を鮮明にさせた方がいいだろうと強調したいだけのことである。 "金銭的・職業的動機" を優先させるならば、若い世代と互角に競い合うために、熾烈な "学び方" を覚悟して進めればいいことだからだ。
これを曖昧にさせていると、自身の思い込みはどうあろうと、結局は、 "趣味の範疇" での出来事以外ではなくなるに違いないはずである。
とかく、熟年者たちの "学ぶ" 意欲をビジネスにつなげようとする者たちは、あえてこの辺の "境目" を曖昧としながら、 "金銭的報酬" への期待感を助長する手口を使うようでもある。
現在、 "学ぶこと" を現役の職務としている連中も、決して "聖域" なんぞでマイペースでやれているわけではなさそうである。まさに強引な "市場経済" の原理にかく乱されながら、熾烈な "業績主義" の環境で四苦八苦しているという。それはそれで、科学や学問の世界の将来が懸念されもするわけだが今はおく。
これに対して、在野の、そして熟年者たちの "学ぶこと" に関しては、まったく別の "自由な原理" が貫かれてもいいのかもしれないと思っている。
"学ぶこと" が本来持っている "自己目的" 的な喜びのことなのであり、また、極端な表現をするならば、<朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり>(論語)という絶対自由の境地のことことなのである。まさにこれこそが、 "Student" ( Study[学ぶ] + ent[人] )なのではなかろうか、と...... (2009.04.15)
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