昨晩は、松本清張の短編『駅路』をTVドラマ(松本清張生誕100年記念ということでフジテレビ制作)で観た。
原作:松本清張、脚本:向田邦子(30年前に書かれたとか)、出演:役所広司・石坂浩二・十朱幸代・唐十郎など、落ち着いたスタッフたちによるものであったため、2時間を越えるものであったがお付き合いすることにした。
観ながら感じ続けていたことは、作家・松本清張の "リアリストの眼" とでも言うべき視点が、やはりこの現代においては不可欠なんだろうな、という点であった。
それは、人間と社会、時代を鋭く凝視する視点のことである。そこにはことごとく奇麗事や余談を排して、虚飾を見破るとともに、冷徹とさえ思われる捌き方で、対象である人間や社会に迫っていく力強さが余りある。
原作:松本清張、脚本:向田邦子(30年前に書かれたとか)、出演:役所広司・石坂浩二・十朱幸代・唐十郎など、落ち着いたスタッフたちによるものであったため、2時間を越えるものであったがお付き合いすることにした。
観ながら感じ続けていたことは、作家・松本清張の "リアリストの眼" とでも言うべき視点が、やはりこの現代においては不可欠なんだろうな、という点であった。
それは、人間と社会、時代を鋭く凝視する視点のことである。そこにはことごとく奇麗事や余談を排して、虚飾を見破るとともに、冷徹とさえ思われる捌き方で、対象である人間や社会に迫っていく力強さが余りある。
そして、この "リアリストの眼" は、もちろん、上記小説の中でのように、犯罪をめぐる人間模様にも適用されているわけだが、多くの人々が知るように、歴史事象や社会事象に関する著作においても遺憾なく発揮されてきた。
ことさらこうした "リアリストの眼" に注目したいのは、今日の世相があまりにも "浮ついている" かのように見えるからなのかもしれない。人間という複雑な存在に対する観念が実に "軽薄過ぎる" と言って過言ではなさそうだ。
別に、 "複雑であれ" と言っているわけではないのだが、人間に関する事実を限りなく単純化してしまっているかに思える。四六時中、接しているTVのCMで表現されるような、ほとんどマンガ的な人間模様を無批判に吸収してしまっているのではなかろうかと邪推するほどである。
もっとも、あらゆる面で窮地に立たされ、過剰ストレスの場にさらされている現代人にとっては、 "複雑なこと" はイヤだ、避けられれば避けたいという生活感覚が強いのかもしれない。そして、人間にとって何が最も "複雑なこと" であり "鬱陶しいこと" であるのかと言えば、人間そのものであるのかもしれない。誰も彼もが、単純さを売りとする "ペット" たちに視線をずらそうとしているのは、考えようによっては、その辺に理由があるのかもしれない。
となると、人々がどうありたいと思う気持ちとは別に、現実に事実として発生し、展開する錯綜する人間関係やら、その集積としての社会的問題、政治的問題は、どうも決定的に "ネゴシエーター" や "解決者" を見失うことになりはしないか、と思ったりするのである。
この辺の事情が、 "リアリストの眼" を持つ作家・思想家以外の何ものでもない松本清張を、ことさらに懐かしみたい気分にさせるのかもしれない。
思うに、そうした松本清張の "リアリストの眼" が、彼の人生の何から、どこから生まれたのかについて眼を向けるならば、概して、彼の "苦渋に満ちた半生" にあっただろうことを指摘する者は少なくない。もちろん、 "苦渋" だけで "人間" が形成されるはずはなく、それらを埋め合わせて余りある反骨精神のような情熱や潜在能力の賜物であったに違いなかろう。
しかし、こう考えた時にも、 "苦渋に満ちた" 人生なんぞをそもそも視野の外に置こうとするかのような、そんな現状の風潮のことが気になったりする。
今後、時代環境は、 "リアリストの眼" を持った手厳しい批判者たちによって糾されるようなことはますます難しくなってゆくのだろうか...... (2009.04.12)
ことさらこうした "リアリストの眼" に注目したいのは、今日の世相があまりにも "浮ついている" かのように見えるからなのかもしれない。人間という複雑な存在に対する観念が実に "軽薄過ぎる" と言って過言ではなさそうだ。
別に、 "複雑であれ" と言っているわけではないのだが、人間に関する事実を限りなく単純化してしまっているかに思える。四六時中、接しているTVのCMで表現されるような、ほとんどマンガ的な人間模様を無批判に吸収してしまっているのではなかろうかと邪推するほどである。
もっとも、あらゆる面で窮地に立たされ、過剰ストレスの場にさらされている現代人にとっては、 "複雑なこと" はイヤだ、避けられれば避けたいという生活感覚が強いのかもしれない。そして、人間にとって何が最も "複雑なこと" であり "鬱陶しいこと" であるのかと言えば、人間そのものであるのかもしれない。誰も彼もが、単純さを売りとする "ペット" たちに視線をずらそうとしているのは、考えようによっては、その辺に理由があるのかもしれない。
となると、人々がどうありたいと思う気持ちとは別に、現実に事実として発生し、展開する錯綜する人間関係やら、その集積としての社会的問題、政治的問題は、どうも決定的に "ネゴシエーター" や "解決者" を見失うことになりはしないか、と思ったりするのである。
この辺の事情が、 "リアリストの眼" を持つ作家・思想家以外の何ものでもない松本清張を、ことさらに懐かしみたい気分にさせるのかもしれない。
思うに、そうした松本清張の "リアリストの眼" が、彼の人生の何から、どこから生まれたのかについて眼を向けるならば、概して、彼の "苦渋に満ちた半生" にあっただろうことを指摘する者は少なくない。もちろん、 "苦渋" だけで "人間" が形成されるはずはなく、それらを埋め合わせて余りある反骨精神のような情熱や潜在能力の賜物であったに違いなかろう。
しかし、こう考えた時にも、 "苦渋に満ちた" 人生なんぞをそもそも視野の外に置こうとするかのような、そんな現状の風潮のことが気になったりする。
今後、時代環境は、 "リアリストの眼" を持った手厳しい批判者たちによって糾されるようなことはますます難しくなってゆくのだろうか...... (2009.04.12)
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