"就寝時の読書" というのは、意外と良さそうである。他の人の場合はわからないので自分だけのことかもしれないが、自然に "集中できる" からである。
もっとも、調子に乗って深入りすると、眠気はどこかへ行ってしまうし、妙に頭や心が活性化されてしまって、眠るどころではなくなってしまうのが困る。
どうして "集中できる" のかと考えてみるに、本に書かれていることに自然な雰囲気ですんなりと入って行けるからなのかもしれない。日中に広げてみると、結構、厄介な感触の複雑さを感じるような本でも、何となく親しめてしまったりするのだ。そして、その気になっていると、ホイホイというのは大げさにしても、かなり軽快に読み進めて行けたりするからおかしい。
まあ、寝室の枕元周辺だけが明かるくて、部屋全体は暗いといった一般的な寝室の状況を思い描くだけで、 "集中できる" 環境だろうとは考えられる。また、人は眠る以外に他にすることがないといった状態に置かれると、否応なく "集中できる" ものだとも考えられる。
もっとも、調子に乗って深入りすると、眠気はどこかへ行ってしまうし、妙に頭や心が活性化されてしまって、眠るどころではなくなってしまうのが困る。
どうして "集中できる" のかと考えてみるに、本に書かれていることに自然な雰囲気ですんなりと入って行けるからなのかもしれない。日中に広げてみると、結構、厄介な感触の複雑さを感じるような本でも、何となく親しめてしまったりするのだ。そして、その気になっていると、ホイホイというのは大げさにしても、かなり軽快に読み進めて行けたりするからおかしい。
まあ、寝室の枕元周辺だけが明かるくて、部屋全体は暗いといった一般的な寝室の状況を思い描くだけで、 "集中できる" 環境だろうとは考えられる。また、人は眠る以外に他にすることがないといった状態に置かれると、否応なく "集中できる" ものだとも考えられる。
当然のことながら、疲れていたり眠かったりするわけだから、知性自体が冴えているのだとは到底考えられない。とすればなぜ "集中できる" のであろうか。
ひょっとしたら、余計な "雑念" やら "気苦労" などの邪魔者たちが弱まるからなのかもしれないと推測したりする。つまり、感情面とかの、知性以外の部分が抑制されて単純化するために、たとえ疲れた知性であっても、スムーズに働くのかもしれない。
と考えてみると、日中の状態というのは一体どうなっているのかと、振り返ってしまうのである。要するに、余計な "雑念" やら "気苦労" などの邪魔者たちが四六時中まつわりついて、 "集中できる" ことを妨げているのではないかと、そんなふうに思ってしまうのである。
生産的であるべき日中の頭や心のありようが、結果的には、 "分散化した気分" や、大事な能力が "拡散とかく乱" の状態にあるのだとしたら、こんな "非生産的" なことはないと思われてくる。
奇妙な表現をすれば、人には、二つの "行動モード" があったりするのかもしれない。日中時の "こなしモード" と、たとえば日が暮れてからの "集中モード" とか。
"こなしモード" では、仕事に象徴されるように、とにかく周囲との対外関係に四六時中注意を払い、それを踏まえながら "こなし" 作業に精を出す。当然のことながら、集中すればこそ可能であるような "質の高いアウトプット" なぞ二の次になるのではなかろうか。
そして、そうした "こなしモード" の対外関係から解放された時間帯から始まるのが、 "集中モード" ということになるのやもしれぬ。ここでは、取り立てて対外関係には気をとられなくてもよいというその一点が、人をして "集中せしめる" に違いない。
職場にも、よくいるものだが、 "アフターファイブ" になると "蘇生する" 者というのはきっとこうしたメカニズムを顕著に体現している者だと言えるのではなかろうか。
何とかして、日中の時間帯に "集中モード" を引き出してみたいと思う人も少なくないのではなかろうか。中には、いろいろな環境設定をして余計な "雑念" やら "気苦労" などの邪魔者たちを排除すればいい、と唱える者もいる。
しかし、中々どうして、そう簡単なものでもなさそうである。とすれば、むしろ、 "集中モード" で生じがちな "美味な果実" を如何に活かすか、あるいはそれを一過性にしておかずに日中の時間帯のモードにどう引き継いで行くか、というテーマが重要になってきそうである...... (2009.04.30)
ひょっとしたら、余計な "雑念" やら "気苦労" などの邪魔者たちが弱まるからなのかもしれないと推測したりする。つまり、感情面とかの、知性以外の部分が抑制されて単純化するために、たとえ疲れた知性であっても、スムーズに働くのかもしれない。
と考えてみると、日中の状態というのは一体どうなっているのかと、振り返ってしまうのである。要するに、余計な "雑念" やら "気苦労" などの邪魔者たちが四六時中まつわりついて、 "集中できる" ことを妨げているのではないかと、そんなふうに思ってしまうのである。
生産的であるべき日中の頭や心のありようが、結果的には、 "分散化した気分" や、大事な能力が "拡散とかく乱" の状態にあるのだとしたら、こんな "非生産的" なことはないと思われてくる。
奇妙な表現をすれば、人には、二つの "行動モード" があったりするのかもしれない。日中時の "こなしモード" と、たとえば日が暮れてからの "集中モード" とか。
"こなしモード" では、仕事に象徴されるように、とにかく周囲との対外関係に四六時中注意を払い、それを踏まえながら "こなし" 作業に精を出す。当然のことながら、集中すればこそ可能であるような "質の高いアウトプット" なぞ二の次になるのではなかろうか。
そして、そうした "こなしモード" の対外関係から解放された時間帯から始まるのが、 "集中モード" ということになるのやもしれぬ。ここでは、取り立てて対外関係には気をとられなくてもよいというその一点が、人をして "集中せしめる" に違いない。
職場にも、よくいるものだが、 "アフターファイブ" になると "蘇生する" 者というのはきっとこうしたメカニズムを顕著に体現している者だと言えるのではなかろうか。
何とかして、日中の時間帯に "集中モード" を引き出してみたいと思う人も少なくないのではなかろうか。中には、いろいろな環境設定をして余計な "雑念" やら "気苦労" などの邪魔者たちを排除すればいい、と唱える者もいる。
しかし、中々どうして、そう簡単なものでもなさそうである。とすれば、むしろ、 "集中モード" で生じがちな "美味な果実" を如何に活かすか、あるいはそれを一過性にしておかずに日中の時間帯のモードにどう引き継いで行くか、というテーマが重要になってきそうである...... (2009.04.30)
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