昨日は、< "将来への意欲" を喚起するような何か! をしっかりと掴んでいることが必要>という点を強調しておきながら、その点をさらに言及していく暇がなかった。
この点は以前からも書き続けてきたことなのだが、要するに、格好良く言えば、環境が "火事場騒ぎ" のようになった時でも、地に足を付けて大局を見据えるべきだろう、ということになろうか。
そして、そのためには、希望を持つとまで力むことはなくとも、少なくとも "将来への意欲" が喚起されている状態になっていないと困難なのではないかと感じている。
とりあえず、その素材や対象は何でも良さそうに思っている。とにかく、そのことを考えてみるだけで所在無い気分から逃れられ、何か、 "心棒" が与えられたような座りが生まれる、といったようなイメージである。それは、ちょうど "軸" があるがゆえに回転して凛として起立していられる独楽(こま)の印象に似ているかもしれない。
この点は以前からも書き続けてきたことなのだが、要するに、格好良く言えば、環境が "火事場騒ぎ" のようになった時でも、地に足を付けて大局を見据えるべきだろう、ということになろうか。
そして、そのためには、希望を持つとまで力むことはなくとも、少なくとも "将来への意欲" が喚起されている状態になっていないと困難なのではないかと感じている。
とりあえず、その素材や対象は何でも良さそうに思っている。とにかく、そのことを考えてみるだけで所在無い気分から逃れられ、何か、 "心棒" が与えられたような座りが生まれる、といったようなイメージである。それは、ちょうど "軸" があるがゆえに回転して凛として起立していられる独楽(こま)の印象に似ているかもしれない。
現在はほとんど "戦時中" という時代環境になっているのではなかろうか。いや、ほぼ確実にそうだろう。いかに、メディア環境その他が平静を装ったベールを張りめぐらせていようと、実質的な現実は、 "戦時下状況" そのものではないかと......。
先日の "憲法記念日" の際には、 "平和" 問題どころか、 "生存権" の問題が注目されていたようである。
つまり、軍事問題や "平和" 問題は論じるまでもないほどにその危機的状況は昂進されてしまい、さらに本丸とも言える "生存権" 自体が蹂躙されつつある、そんな状況にまで来てしまったということなのではなかろうか。これを、 "戦時中" と言わずに何と言うべきか、ということなのだ。
こうした状況に対面している、自分も含めた個人側の有り様が気にならざるを得ないということになる。 "右往左往" や "付和雷同" かもしれないし、 "恥も外聞もなく" かもしれないし、 "群集心理" 的となると言ってもよさそうだ。要するに、 "遠心力" に振り回される状態となり、まったく "求心力" が働かなくなってゆくのではなかろうか。
"求心力" が働かなくなってゆくその原因、それこそは内部に "心棒" が自覚できない状態だとイメージする。
より上等なことを言うならば、 "心棒" などといわずに "信念" と呼ぶべきだとの声も聞こえてきそうだが、この時代にそれを望むのはやや無いものねだりのような気がしないでもない。
ここは、ずっと薄めたかたちで、 "そのことを考えてみるだけで所在無い気分から逃れられる何か" でも良さそうだと考えている。
そうしたものが作り出す磁力や磁場が、 "遠心力" だけに翻弄されそうな最中に、多少とも "求心力" を生み出し、それが何がしかの "落ち着き" を用意してくれるのであればありがたいと思える。
先ほど、 "とりあえず、その素材や対象は何でも良い" としたが、どうも、人は何かに熱中していくと、その熱中した対象を素材にして、あるいはそれを透して自分なりの世界を眺めるようになりそうである。
ことわざが<一芸は道に通ずる>(ある一つの芸をきわめた人は、他のどんな分野でも人にぬきんでることができるということ)と言うことの一面にはそんな道理も隠されていそうだ。
こんなことで、この危ない "戦時下状況" を生き抜くためには、最低限の経済的条件も重要に違いなかろうが、やがては、何のために生きるのか、というテーマへとリンクしていくはずの内部の "心棒" とでもいうものに意を払いたいと思っている...... (2009.05.05)
先日の "憲法記念日" の際には、 "平和" 問題どころか、 "生存権" の問題が注目されていたようである。
つまり、軍事問題や "平和" 問題は論じるまでもないほどにその危機的状況は昂進されてしまい、さらに本丸とも言える "生存権" 自体が蹂躙されつつある、そんな状況にまで来てしまったということなのではなかろうか。これを、 "戦時中" と言わずに何と言うべきか、ということなのだ。
こうした状況に対面している、自分も含めた個人側の有り様が気にならざるを得ないということになる。 "右往左往" や "付和雷同" かもしれないし、 "恥も外聞もなく" かもしれないし、 "群集心理" 的となると言ってもよさそうだ。要するに、 "遠心力" に振り回される状態となり、まったく "求心力" が働かなくなってゆくのではなかろうか。
"求心力" が働かなくなってゆくその原因、それこそは内部に "心棒" が自覚できない状態だとイメージする。
より上等なことを言うならば、 "心棒" などといわずに "信念" と呼ぶべきだとの声も聞こえてきそうだが、この時代にそれを望むのはやや無いものねだりのような気がしないでもない。
ここは、ずっと薄めたかたちで、 "そのことを考えてみるだけで所在無い気分から逃れられる何か" でも良さそうだと考えている。
そうしたものが作り出す磁力や磁場が、 "遠心力" だけに翻弄されそうな最中に、多少とも "求心力" を生み出し、それが何がしかの "落ち着き" を用意してくれるのであればありがたいと思える。
先ほど、 "とりあえず、その素材や対象は何でも良い" としたが、どうも、人は何かに熱中していくと、その熱中した対象を素材にして、あるいはそれを透して自分なりの世界を眺めるようになりそうである。
ことわざが<一芸は道に通ずる>(ある一つの芸をきわめた人は、他のどんな分野でも人にぬきんでることができるということ)と言うことの一面にはそんな道理も隠されていそうだ。
こんなことで、この危ない "戦時下状況" を生き抜くためには、最低限の経済的条件も重要に違いなかろうが、やがては、何のために生きるのか、というテーマへとリンクしていくはずの内部の "心棒" とでもいうものに意を払いたいと思っている...... (2009.05.05)
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