外出時に出会う "子どもや動物たち" は、羨ましく思えるほどに "明朗" そのものである。決して、辛いことや悲しいことがないわけではなかろう。だが、概してあっけらかんとしていて実に羨ましい限りである。
やっかみ半分ながらその理由を考えてみたりしたものだ。ふと浮かんできたのは、 "関係性" という言葉であった。まあ別に小難しい言葉を選ぶつもりはない。
だが、分別のある大人たちは、何と "関係" という網の目で "がんじがらめ" となっていることであろうか。そんな点から浮かんだ言葉なのかもしれない。
やっかみ半分ながらその理由を考えてみたりしたものだ。ふと浮かんできたのは、 "関係性" という言葉であった。まあ別に小難しい言葉を選ぶつもりはない。
だが、分別のある大人たちは、何と "関係" という網の目で "がんじがらめ" となっていることであろうか。そんな点から浮かんだ言葉なのかもしれない。
さまざまな "関係" 、それは身の回りの人間関係からはじまって、仕事関係やら社会関係へと広がり、今やグローバルな関係へと連なって、いずれもが人々を解放させたり、開放的な気分にさせるよりも、まるで、巨大な怪獣が人の生き血を吸うかのごとく、人々を拘束し弱らせているかの、そんな印象がある。
人間は、 "人の間" こそに本質があるらしいが、そうとはいうものの、いつからどうなったのかは知らないが、 "人の間" という "関係性" が今やとんでもなく人々の重荷になっている気配が濃厚だ。何も個人的な人間関係がどうだとかで言っているのではない。社会関係、経済関係......、というようなマクロな環境を構成する "関係性" の累積が、まるで岩山のごとく固着して固まり、とても "関係" という言葉が持つ "柔軟性・流動性" を失ってしまっていそうだと感じるのである。
そんなものは知らん顔をして振り切れば良かろうと思ってはみたいものである。しかし、そうは行かずに、ますます絡まり、そしてまさに "がんじがらめ" に陥っているのが、分別があるといわれる大人たちなのであろう。
これに対して、 "子どもや動物たち" は、幸いにして岩山のごとく固着して固まってしまった "関係性" の堆積を知らずにいる。経験の少なさ、限られた視野・視界、そして現実に足を取られない伸びやかな空想力......、それらが自身の "等身大" 的世界だけを相手にしていれば済む状況を作り出していそうだ。
分別のある大人たちは、今や、 "等身大" どころか、とても手に負えない "地球大" 的現実に直面させられて、個人能力の比なんかではない巨大な問題群に悩まされていそうである。
一頃、盛んに "等身大" という言葉が流行った記憶があるが、 "子どもや動物たち" の健全な明るさに目を向けると、 "等身大" 的な世界、あるいはそれに近い世界が構築できないものだろうかと妄想するのである...... (2009.05.14)
人間は、 "人の間" こそに本質があるらしいが、そうとはいうものの、いつからどうなったのかは知らないが、 "人の間" という "関係性" が今やとんでもなく人々の重荷になっている気配が濃厚だ。何も個人的な人間関係がどうだとかで言っているのではない。社会関係、経済関係......、というようなマクロな環境を構成する "関係性" の累積が、まるで岩山のごとく固着して固まり、とても "関係" という言葉が持つ "柔軟性・流動性" を失ってしまっていそうだと感じるのである。
そんなものは知らん顔をして振り切れば良かろうと思ってはみたいものである。しかし、そうは行かずに、ますます絡まり、そしてまさに "がんじがらめ" に陥っているのが、分別があるといわれる大人たちなのであろう。
これに対して、 "子どもや動物たち" は、幸いにして岩山のごとく固着して固まってしまった "関係性" の堆積を知らずにいる。経験の少なさ、限られた視野・視界、そして現実に足を取られない伸びやかな空想力......、それらが自身の "等身大" 的世界だけを相手にしていれば済む状況を作り出していそうだ。
分別のある大人たちは、今や、 "等身大" どころか、とても手に負えない "地球大" 的現実に直面させられて、個人能力の比なんかではない巨大な問題群に悩まされていそうである。
一頃、盛んに "等身大" という言葉が流行った記憶があるが、 "子どもや動物たち" の健全な明るさに目を向けると、 "等身大" 的な世界、あるいはそれに近い世界が構築できないものだろうかと妄想するのである...... (2009.05.14)
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