今日は一日中、 "予定外" の行動で振り回された感がある。
"予定外" とは言えそれはそれで重要な事柄でもあるために、対処しているうちにあっと言う間に一日が過ぎようとしている。
まあ、 "予定" だとか "予定外" だとかと言っても、所詮は自身の主観的な仕分けでしか過ぎず、 "予定" していた事柄が必ず優先されなければならないほどに確たるものだとは言い切れない。この辺の曖昧化した状態が現在の状況の特徴なのかもしれない。
ただ、 "予定" とかにこだわるのは、状況に "振り回される" ことを極力避けたいと考えるからであろう。とかく、現在のような "何でもあり" 的な混乱時では、下手をすれば外発的な事柄に "撹乱" されっぱなしとなり、 "場当たり的" でしかない行動に誘われがちである。
こうした状況を完璧にコントロールすることなぞ不可能だとは思われるが、可能な限り自分の考えや思いを託した行動や選択をしたいもの。結局、そうした下地や積み重ねが、次のそうした行動選択を可能にする条件だと思えるからである。
そうは言うものの、どうしても "場当たり的" な行動に流されてしまい、後悔することしきりとなってはいる。だからこそ、尚のこと、自身の思いによる "予定" なぞにこだわりたいと思うのであろう。
"予定外" とは言えそれはそれで重要な事柄でもあるために、対処しているうちにあっと言う間に一日が過ぎようとしている。
まあ、 "予定" だとか "予定外" だとかと言っても、所詮は自身の主観的な仕分けでしか過ぎず、 "予定" していた事柄が必ず優先されなければならないほどに確たるものだとは言い切れない。この辺の曖昧化した状態が現在の状況の特徴なのかもしれない。
ただ、 "予定" とかにこだわるのは、状況に "振り回される" ことを極力避けたいと考えるからであろう。とかく、現在のような "何でもあり" 的な混乱時では、下手をすれば外発的な事柄に "撹乱" されっぱなしとなり、 "場当たり的" でしかない行動に誘われがちである。
こうした状況を完璧にコントロールすることなぞ不可能だとは思われるが、可能な限り自分の考えや思いを託した行動や選択をしたいもの。結局、そうした下地や積み重ねが、次のそうした行動選択を可能にする条件だと思えるからである。
そうは言うものの、どうしても "場当たり的" な行動に流されてしまい、後悔することしきりとなってはいる。だからこそ、尚のこと、自身の思いによる "予定" なぞにこだわりたいと思うのであろう。
今ひとつ、 "予定" だとか "予定外" だとかにこだわる理由があるとすれば、物事にはそれが実るために掛かる時間というものがあるからかもしれない。
仮に、農業従事者であれば、今どんな作業をすべきかを考える際に、当然、一刻も早く収穫しなければならないというような緊急作業を念頭に置くとともに、もう一方で、今、植え付けておかなければ将来の損失につながるような作業も念頭から外すことはできないであろう。
刈り取り作業を場当たり的作業だとは言わないにしても、先々に収穫できるものを重視して "予定" 的に対処すること、それが不可欠だと思える。特に、農業のような "育てる" ことが核となるようなジャンルにあってはそうだと思える。
どんなに "撹乱" されがちな状況にあっても、次に来る時間帯に向けた準備というか、そこでの刈り取りに向けて、何か価値あるものを "育てる" こと、そこから目を離してはいけないと思うわけだ。もし、それがなければ常に場当たり的な行動に終始せざるを得なくなるのは目に見えているのではないか、と。
何を "植え付ければ" 将来のためになるか、その答えは、こんな時期には難解ではあろう。しかし、そうした発想は不確かで曖昧だからということで黙殺していたのでは、まさに時間の流れに将来はなくなることになる。
今、ふと、 "農耕民族" と "狩猟民族" という対比を思い起こしたが、 "収穫" と "育てること" とを並行して進める "農耕民族" 的スタンスが必要だということ......。
ただ、現代という時代は言うまでもなく "狩猟民族" 的行動様式優先の時代であろう。刈り取る(狩り獲る)ことのみに関心が集中した時代のようであるが、その矛盾は日増しに拡大していそうだ。
まあ、高が "予定" とか "予定外" とかの話から大仰なことを書いてしまった...... (2009.05.22)
仮に、農業従事者であれば、今どんな作業をすべきかを考える際に、当然、一刻も早く収穫しなければならないというような緊急作業を念頭に置くとともに、もう一方で、今、植え付けておかなければ将来の損失につながるような作業も念頭から外すことはできないであろう。
刈り取り作業を場当たり的作業だとは言わないにしても、先々に収穫できるものを重視して "予定" 的に対処すること、それが不可欠だと思える。特に、農業のような "育てる" ことが核となるようなジャンルにあってはそうだと思える。
どんなに "撹乱" されがちな状況にあっても、次に来る時間帯に向けた準備というか、そこでの刈り取りに向けて、何か価値あるものを "育てる" こと、そこから目を離してはいけないと思うわけだ。もし、それがなければ常に場当たり的な行動に終始せざるを得なくなるのは目に見えているのではないか、と。
何を "植え付ければ" 将来のためになるか、その答えは、こんな時期には難解ではあろう。しかし、そうした発想は不確かで曖昧だからということで黙殺していたのでは、まさに時間の流れに将来はなくなることになる。
今、ふと、 "農耕民族" と "狩猟民族" という対比を思い起こしたが、 "収穫" と "育てること" とを並行して進める "農耕民族" 的スタンスが必要だということ......。
ただ、現代という時代は言うまでもなく "狩猟民族" 的行動様式優先の時代であろう。刈り取る(狩り獲る)ことのみに関心が集中した時代のようであるが、その矛盾は日増しに拡大していそうだ。
まあ、高が "予定" とか "予定外" とかの話から大仰なことを書いてしまった...... (2009.05.22)
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