このところ毎日が大掃除のような集中的な整理を行っている。先日来の大量書籍整理が弾みとなっているようだ。
今日は、古くなり不要となった "二穴バインダー" を大量に廃棄処分とした。まだまだ十分に使用可能なのであるが、数センチから十センチの厚さがあるそれらは、ただただ嵩張ってしまう。情報のデジタル化は、新しいメディアやストレージの普及とともに、ペーパーレスをもたらし、ペーパー類を束ねるバインダーなどを鬱陶しい存在に変えてしまった。
そこでこの際に処分をということになったのだが、そのままの形では廃棄処分するにも嵩張り過ぎる。まして、表紙の厚紙と内部の綴じ金具とのセットはいかにも処分不適当である。ゴミの分別収集路線に反するということだ。
ということで、これを分離させなければならないのだが、この作業が意外に難物だったのである。リベットのような強固なピンで結合させられていて、ちょいと抉ったくらいでは外れない。
となると "なにくそ" という挑戦心がムラムラと湧いてくるのが自分である。手をこまねいている社員に代わって、いろいろな道具類をあてがって分解方法を模索したのであった。そして、ついでだからと、自分が大量のバインダーを一挙にやっつけることになってしまった。
今日は、古くなり不要となった "二穴バインダー" を大量に廃棄処分とした。まだまだ十分に使用可能なのであるが、数センチから十センチの厚さがあるそれらは、ただただ嵩張ってしまう。情報のデジタル化は、新しいメディアやストレージの普及とともに、ペーパーレスをもたらし、ペーパー類を束ねるバインダーなどを鬱陶しい存在に変えてしまった。
そこでこの際に処分をということになったのだが、そのままの形では廃棄処分するにも嵩張り過ぎる。まして、表紙の厚紙と内部の綴じ金具とのセットはいかにも処分不適当である。ゴミの分別収集路線に反するということだ。
ということで、これを分離させなければならないのだが、この作業が意外に難物だったのである。リベットのような強固なピンで結合させられていて、ちょいと抉ったくらいでは外れない。
となると "なにくそ" という挑戦心がムラムラと湧いてくるのが自分である。手をこまねいている社員に代わって、いろいろな道具類をあてがって分解方法を模索したのであった。そして、ついでだからと、自分が大量のバインダーを一挙にやっつけることになってしまった。
今日の午前中4時間はフルにその作業に没頭したのである。まるで、自分が機械か何かのような感じになっていた。あるいは、かつて学生時代にあちこちで経験した単純作業のアルバイトのことを思い起こしたりもしていた。
いわゆる "工作" 作業は嫌いではない自分であったため、鉄工、木工などをはじめとしたその種の作業をよくアルバイトで経験していた。
単純作業というものは、確かに "身がもたない" ほどにやり切れない気分に襲われるものだ。何か別なことを考えるといっても、なかなかそうもいかない。そうした時に唯一動機づけとなるのは、時計を睨みながらいつまでに何個をこなせるかという競争心であるかもしれない。
で、今朝は、可能かどうかは別にして、山と積みあがった "敵勢" を、午前中に一気に蹴散らしてやるぞ! という意気込みで臨んだのであった。
最初の内は、道具の先が滑った転んだのドジを踏んでいたが、やがて上半身はまさに機械と化し、 "敵" の息の根を次から次へと的確に射止める手際良さになって行った。
そして、正午過ぎには圧勝したのであった。 "敵勢" の屍は、片やへなへなと厚紙の山となり、またダンボール箱の放り込まれた金具の山となったのであった。
傍から見れば何ともダサイ作業ではあるが、なぜか自分にとっては、久々に遣り甲斐を感じた肉体作業であったのかもしれない。
意外と、こうした文脈での遣り甲斐とか、充実感とかが日常生活では不可欠なのではなかろうか...... (2009.06.08)
いわゆる "工作" 作業は嫌いではない自分であったため、鉄工、木工などをはじめとしたその種の作業をよくアルバイトで経験していた。
単純作業というものは、確かに "身がもたない" ほどにやり切れない気分に襲われるものだ。何か別なことを考えるといっても、なかなかそうもいかない。そうした時に唯一動機づけとなるのは、時計を睨みながらいつまでに何個をこなせるかという競争心であるかもしれない。
で、今朝は、可能かどうかは別にして、山と積みあがった "敵勢" を、午前中に一気に蹴散らしてやるぞ! という意気込みで臨んだのであった。
最初の内は、道具の先が滑った転んだのドジを踏んでいたが、やがて上半身はまさに機械と化し、 "敵" の息の根を次から次へと的確に射止める手際良さになって行った。
そして、正午過ぎには圧勝したのであった。 "敵勢" の屍は、片やへなへなと厚紙の山となり、またダンボール箱の放り込まれた金具の山となったのであった。
傍から見れば何ともダサイ作業ではあるが、なぜか自分にとっては、久々に遣り甲斐を感じた肉体作業であったのかもしれない。
意外と、こうした文脈での遣り甲斐とか、充実感とかが日常生活では不可欠なのではなかろうか...... (2009.06.08)
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