何かと気ぜわしい日々である。が、しかし、目先のやっつけ作業で流していたのでは頭の動きが鈍るのではないかと思ったりする。
そこで、かねがね気になっていたネット関連のちょっとした課題に目を向けたりする。下手をすれば厄介なことにはまり込み、想定外の時間を喰われそうかとも懸念しながら、それでも挑戦したくなる。意外と "案ずるより生むが易し" に至るのではないかと、期待しつつ臨むわけだ。
なんせ、このところ肉体労働に明け暮れていて、こんな調子では頭の中が錆付いてはいけないという妙な不安も手伝ってのことだ。
だが、今日の挑戦は、完璧に "裏目" に出てしまった。時間が取られるという点では最悪の事態となり、今朝ほどからつい先ほどまで、ほぼ一日が喰われてしまい、なおかつ小さくない不具合箇所が残ったままである。まことに気分が良くない。
まあ、ちょっとした "パズル" を今後に残し、身体ばかりを疲れさせることになった時の "お楽しみ" ということになる、と慰めている。
そこで、かねがね気になっていたネット関連のちょっとした課題に目を向けたりする。下手をすれば厄介なことにはまり込み、想定外の時間を喰われそうかとも懸念しながら、それでも挑戦したくなる。意外と "案ずるより生むが易し" に至るのではないかと、期待しつつ臨むわけだ。
なんせ、このところ肉体労働に明け暮れていて、こんな調子では頭の中が錆付いてはいけないという妙な不安も手伝ってのことだ。
だが、今日の挑戦は、完璧に "裏目" に出てしまった。時間が取られるという点では最悪の事態となり、今朝ほどからつい先ほどまで、ほぼ一日が喰われてしまい、なおかつ小さくない不具合箇所が残ったままである。まことに気分が良くない。
まあ、ちょっとした "パズル" を今後に残し、身体ばかりを疲れさせることになった時の "お楽しみ" ということになる、と慰めている。
あまり時間がないので、さらりと書こうかと思うが、ひとつ気になっているのは、 "手段と目的" というありふれたテーマなのである。
昨今、正直言って、心うきうきとするようなことが少なく、どちらかと言えば "目を瞑ってやり過ごしたい" ようないやなことがめっぽう多い。
しかし、こんなことは多分に、今後、増えこそすれ少なくなることはなかろう、というような妙な諦め感に浸されてもいる。
が、同時に、これはマズイことだと感じてもいる。それが唯一 "健全" である点なのかもしれないと思ったりもしている。
そこで、自分に言い聞かせようとしているのが、何事に当たる際にも、決してそれが何かの "手段" だと思わずに、そのこと自体が "目的" なのだと思うようにしてはどうかという発想法なのである。
もちろん、長年、染み付いてしまった "手段視" という姿勢が、一朝一夕に変えられるはずはなさそうだ。
しかし、よくよく振り返ってみると、いやなことに直面した時に、人がとる姿勢は、それをジックリと見つめたり、しっかりと対面したりしようとはせずに、まあどちらかと言えば無いに越したことはないもの、別な何か良いものの実現のための "手段" として見なしがちなのではなかろうか。
やむを得ないと言えばそうであるが、これではますますいやなことのいやさ加減は増すばかりであるに違いない。
そこで、むしろ、遭遇することになったそのいやなことを、評価の位置づけから言うならば、 "目的" とさえ見なすならば、その体験なりはかなり異なったものになりそうだと思うのである。
世の中の出来事、事柄というのは、まさに "案ずるより生むが易し" というケースも少なくはないし、これは "目的" に値する対象なのだと構えれば、結構、興味深い側面も見えてきたりするのかもしれない。
この時代環境は、おそらく誰にとってもいやなことが少なくない、そんな状況になりそうな予感がしている。となれば、腹を据えて、そうしたいやなことをも受けてやろうじゃないか、と前向きとなれたら、いや、そうでなければやってられないだろう...... (2009.06.08)
昨今、正直言って、心うきうきとするようなことが少なく、どちらかと言えば "目を瞑ってやり過ごしたい" ようないやなことがめっぽう多い。
しかし、こんなことは多分に、今後、増えこそすれ少なくなることはなかろう、というような妙な諦め感に浸されてもいる。
が、同時に、これはマズイことだと感じてもいる。それが唯一 "健全" である点なのかもしれないと思ったりもしている。
そこで、自分に言い聞かせようとしているのが、何事に当たる際にも、決してそれが何かの "手段" だと思わずに、そのこと自体が "目的" なのだと思うようにしてはどうかという発想法なのである。
もちろん、長年、染み付いてしまった "手段視" という姿勢が、一朝一夕に変えられるはずはなさそうだ。
しかし、よくよく振り返ってみると、いやなことに直面した時に、人がとる姿勢は、それをジックリと見つめたり、しっかりと対面したりしようとはせずに、まあどちらかと言えば無いに越したことはないもの、別な何か良いものの実現のための "手段" として見なしがちなのではなかろうか。
やむを得ないと言えばそうであるが、これではますますいやなことのいやさ加減は増すばかりであるに違いない。
そこで、むしろ、遭遇することになったそのいやなことを、評価の位置づけから言うならば、 "目的" とさえ見なすならば、その体験なりはかなり異なったものになりそうだと思うのである。
世の中の出来事、事柄というのは、まさに "案ずるより生むが易し" というケースも少なくはないし、これは "目的" に値する対象なのだと構えれば、結構、興味深い側面も見えてきたりするのかもしれない。
この時代環境は、おそらく誰にとってもいやなことが少なくない、そんな状況になりそうな予感がしている。となれば、腹を据えて、そうしたいやなことをも受けてやろうじゃないか、と前向きとなれたら、いや、そうでなければやってられないだろう...... (2009.06.08)
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