"構造改革・グローバリゼーション" とかという経済風潮が深まったことにより無くなってしまったものは少なくなさそうである。この風潮の広がり、または影響の広がりをどこまで含めるかによって様子は異なってきそうだが、ざっくりと市場競争激化、弱肉強食という特徴あたりに目を向けておく。
昨日も、TV番組の何かで、とある地域の商店街の店主たちが増え続けるスーパーやその種の大型店舗によって小売店舗は勝ち目がないと嘆いていた。
すると、跳ね上がりの別の店主が、スーパーの従業員たちは必死の努力をしているのに対して、商店街の連中は努力が足りない、それがこんな事態を招いている......、とまくし立てたりしていた。一理ないこともないが、多分、そんなことでは済まない話になっていそうである。
"構造改革・グローバリゼーション" という発想は、 "効率化" とはいうものの、要するに、営業範囲や事業範囲を可能な限り拡大し、大量販売を大前提にした格安な大量仕入れを推し進め、また経営の画一モードを実施してムダを省き "収益性" を高める手法以外ではない。それが、全国チェーン店の乱立を生み出し、消費者にとっては一見有難く感じられる "低価格" 商品をもたらしているわけであろう。
昨日も、TV番組の何かで、とある地域の商店街の店主たちが増え続けるスーパーやその種の大型店舗によって小売店舗は勝ち目がないと嘆いていた。
すると、跳ね上がりの別の店主が、スーパーの従業員たちは必死の努力をしているのに対して、商店街の連中は努力が足りない、それがこんな事態を招いている......、とまくし立てたりしていた。一理ないこともないが、多分、そんなことでは済まない話になっていそうである。
"構造改革・グローバリゼーション" という発想は、 "効率化" とはいうものの、要するに、営業範囲や事業範囲を可能な限り拡大し、大量販売を大前提にした格安な大量仕入れを推し進め、また経営の画一モードを実施してムダを省き "収益性" を高める手法以外ではない。それが、全国チェーン店の乱立を生み出し、消費者にとっては一見有難く感じられる "低価格" 商品をもたらしているわけであろう。
こうしたあたかも "連合軍上陸" (そう言えば、6月6日/1944年は、連合軍のノルマンジー上陸の日だったとか)のような大挙で迫られると、ドイツ軍ではなく、地元商店主のどいつもこいつもひとたまりもない。何円、何十円という価格の開きは、個人的努力がどうのというミクロなレベルの話ではないからである。努力して、勉強してがんばって価格を下げるのは、一時的には可能であっても、長続きはせず、結局は商店の経営不振を呼び寄せるだけに終わりかねない。
以前にも、こうした "大店舗の地域進出と地元商店街" という話は書いたはずなので、今日はさらに一歩話を進めたい。
今日の庶民の生活が不安定で釈然としない原因は、いろいろとあろうとは思うけれど、そのひとつとして、 "等身大の仕事のチャンス" というものが次から次へと喪失させられている、という点がありはしないかと思うのだ。上記の地元商店街の商店という自営業者たちは典型的な "等身大の仕事" に携わっている。それが、いわゆる "大手スーパー" という "非・等身大" 的大規模な資本によってメチャクチャにされているわけだ。
一般のサラリーマンたちは、それは商店という立場の話だと冷めた目で見るかもしれないのだが、果たしてそうかと言えば必ずしもそうではない。
今どき、サラリーマンといえどもいつ何時、そうではない立場に追い込まれ、地元地域に放り出されるかもしれないリスクが満ちている。
そうなった時、渡りに舟の会社が見つかればよいが、そうでなければ、たとえわずかでも "臨時収入" なりとも掴みたいと見回したとしても、 "等身大の仕事のチャンス" なぞはまずないはずである。悪戦苦闘する中で、結局は、 "非・等身大" 的大規模な資本が投ぜられた組織の、その仕事の末端にありつくのが関の山のはずである。
かつての経済社会の "隙間" には、こじんまりとした "等身大の仕事のチャンス" というものが健在であったかと思う。アルバイト的なものから、まさに小規模零細自営業に至るさまざまな "等身大の仕事のチャンス" が存在したかに思う。そしてこれらが、 "就業者" と "失業者" との間の "クッション" ともなっていたのではなかろうか。
ところが、今、こうした構造が崩れ、 "就業" と "失業" という、いわば二極デジタル分極化に突っ込んでしまっているようだ。経済構造が "硬直化" しているとも言える。
話を戻すと、地元商店街の店主たちの嘆きにせよ、あるいは仕事探しの末に行き着いた先が結局は大手チェーン企業が経営する派遣会社機構の使い捨て契約であったりという典型的な現代の事象は、要するに、 "等身大の仕事のチャンス" が壊滅している事態を照らし出しているということではなかろうか。
"等身大の仕事のチャンス" という奇妙な表現を使ったが、これは、つまり "個人の自由" というテーマと密接に関係した問題のはずである。少なくとも、 "職業選択の自由" という問題の本質に関係していそうだ...... (2009.06.19)
以前にも、こうした "大店舗の地域進出と地元商店街" という話は書いたはずなので、今日はさらに一歩話を進めたい。
今日の庶民の生活が不安定で釈然としない原因は、いろいろとあろうとは思うけれど、そのひとつとして、 "等身大の仕事のチャンス" というものが次から次へと喪失させられている、という点がありはしないかと思うのだ。上記の地元商店街の商店という自営業者たちは典型的な "等身大の仕事" に携わっている。それが、いわゆる "大手スーパー" という "非・等身大" 的大規模な資本によってメチャクチャにされているわけだ。
一般のサラリーマンたちは、それは商店という立場の話だと冷めた目で見るかもしれないのだが、果たしてそうかと言えば必ずしもそうではない。
今どき、サラリーマンといえどもいつ何時、そうではない立場に追い込まれ、地元地域に放り出されるかもしれないリスクが満ちている。
そうなった時、渡りに舟の会社が見つかればよいが、そうでなければ、たとえわずかでも "臨時収入" なりとも掴みたいと見回したとしても、 "等身大の仕事のチャンス" なぞはまずないはずである。悪戦苦闘する中で、結局は、 "非・等身大" 的大規模な資本が投ぜられた組織の、その仕事の末端にありつくのが関の山のはずである。
かつての経済社会の "隙間" には、こじんまりとした "等身大の仕事のチャンス" というものが健在であったかと思う。アルバイト的なものから、まさに小規模零細自営業に至るさまざまな "等身大の仕事のチャンス" が存在したかに思う。そしてこれらが、 "就業者" と "失業者" との間の "クッション" ともなっていたのではなかろうか。
ところが、今、こうした構造が崩れ、 "就業" と "失業" という、いわば二極デジタル分極化に突っ込んでしまっているようだ。経済構造が "硬直化" しているとも言える。
話を戻すと、地元商店街の店主たちの嘆きにせよ、あるいは仕事探しの末に行き着いた先が結局は大手チェーン企業が経営する派遣会社機構の使い捨て契約であったりという典型的な現代の事象は、要するに、 "等身大の仕事のチャンス" が壊滅している事態を照らし出しているということではなかろうか。
"等身大の仕事のチャンス" という奇妙な表現を使ったが、これは、つまり "個人の自由" というテーマと密接に関係した問題のはずである。少なくとも、 "職業選択の自由" という問題の本質に関係していそうだ...... (2009.06.19)
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