この "奇妙で過酷な時代環境" にあっては、不平不満を言っていては切りがなかろう。とにかく、 "往(い)なしつつ" マイペースでやるほかないわけだ。
そんな心境の中、時々バカなことを考えたりする。
生きること、生活することに、ひょっとしたら存在するのであろう "基準値" を思いっきり下げてみてはどうだろうか......、と。
その "基準値" というのは、人が生きる上で、ものを考えたり感じたり、判断したりする際に、知らず知らずのうちに "基準" とでもしているような水準のことなのだ。
よく言われるように、バブル時代を経験した者にはどうしてもそうした時代の贅沢さや、大雑把な感覚が染みついているようだ。まあ、庶民の場合は贅沢さといっても高が知れているし、その後の "冷や飯" 的環境をいち早くなめさせられてきたため、バブルの酔いなんぞとっくに醒めてはいる。
しかし、必ずしもそんなまともな人々ばかりが世の中にいるわけではない。何だかんだと言いながらバブルの酔いの余韻を手放さずにここまで来ている者もいるに違いない。
だが、そんな人たちは、恵まれているようでありながら、結構、辛いのではなかろうか。というのが、相応の "高い基準値" を引き摺っているはずだからである。
そんな心境の中、時々バカなことを考えたりする。
生きること、生活することに、ひょっとしたら存在するのであろう "基準値" を思いっきり下げてみてはどうだろうか......、と。
その "基準値" というのは、人が生きる上で、ものを考えたり感じたり、判断したりする際に、知らず知らずのうちに "基準" とでもしているような水準のことなのだ。
よく言われるように、バブル時代を経験した者にはどうしてもそうした時代の贅沢さや、大雑把な感覚が染みついているようだ。まあ、庶民の場合は贅沢さといっても高が知れているし、その後の "冷や飯" 的環境をいち早くなめさせられてきたため、バブルの酔いなんぞとっくに醒めてはいる。
しかし、必ずしもそんなまともな人々ばかりが世の中にいるわけではない。何だかんだと言いながらバブルの酔いの余韻を手放さずにここまで来ている者もいるに違いない。
だが、そんな人たちは、恵まれているようでありながら、結構、辛いのではなかろうか。というのが、相応の "高い基準値" を引き摺っているはずだからである。
負け犬の遠吠えのように聞こえるかもしれないが、この "奇妙で過酷な時代環境" というものは、決して "夢よ再び" といった雰囲気を残した甘いものではなさそうだからである。詳細はおくとして、この時代環境は "下り坂" も "下り坂" 、それも崖っぷちでの "下り坂" 以外ではなさそうである。
したがって、甘い期待感を持つことは禁物だと言わざるを得ず、もしそれを嫌うならば、想像を絶した失敗を招くことにさえなりかねない。これはちょうど、バブル期とは言わずとも、すべてが右肩上がりの時期の "地合い" の際には、目先の小さな失敗が、程なくやって来るチャンスによって次々とクリアされていく事情の、その完璧な裏返しだと見なすことができそうである。
そんなわけで、ここは、バブル酔いから一刻も早く醒めて素面(しらふ)に戻ることは勿論のこと、上述のような "基準値" を強制的に "矯正" すべきではないかと感じるのである。
そこで、自分が考える突拍子もないことは、自分が現在 "囚われの身" 、いや古風な言葉となってしまったが、要するに、 "禁固刑" なり "懲役刑" なりの身に成り果てたと、そんなふうに想像してみてはどうかと思うのである。
何か、それほどの "悪いこと" をしたか? そんなことはどうでもいい。もっとも、 "悪いこと" を一切しなかったはずだという人は少ないのではなかろうか。
要は、そう考えることで、とかく浮き上がりがちな "基準値" というものを強制的に "矯正" してはどうかと......。
そうしてみると、とかく不平不満の機関銃連射となりがちな生活環境が、まんざら捨てたものでもないか......、と感じられたりする...... (2009.07.08)
したがって、甘い期待感を持つことは禁物だと言わざるを得ず、もしそれを嫌うならば、想像を絶した失敗を招くことにさえなりかねない。これはちょうど、バブル期とは言わずとも、すべてが右肩上がりの時期の "地合い" の際には、目先の小さな失敗が、程なくやって来るチャンスによって次々とクリアされていく事情の、その完璧な裏返しだと見なすことができそうである。
そんなわけで、ここは、バブル酔いから一刻も早く醒めて素面(しらふ)に戻ることは勿論のこと、上述のような "基準値" を強制的に "矯正" すべきではないかと感じるのである。
そこで、自分が考える突拍子もないことは、自分が現在 "囚われの身" 、いや古風な言葉となってしまったが、要するに、 "禁固刑" なり "懲役刑" なりの身に成り果てたと、そんなふうに想像してみてはどうかと思うのである。
何か、それほどの "悪いこと" をしたか? そんなことはどうでもいい。もっとも、 "悪いこと" を一切しなかったはずだという人は少ないのではなかろうか。
要は、そう考えることで、とかく浮き上がりがちな "基準値" というものを強制的に "矯正" してはどうかと......。
そうしてみると、とかく不平不満の機関銃連射となりがちな生活環境が、まんざら捨てたものでもないか......、と感じられたりする...... (2009.07.08)
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