むざむざと捨てることになるモノを喜んで活用してくれる人がいればありがたいことだ。その一人がおふくろである。
この間も、事務所の方で不要となったいろいろなモノを、打診しては持ち込むことになっている。別に押し付けということではなく、不便をしていると推定して打診してみると、「じゃあ、使う」との回答があったりするのだ。ただ、おふくろは唯々諾々とするタイプではないため、気に入ったモノは大いに喜ぶ反面、そうでない場合は "前向きでの注文" を出す。
モノ入れ棚ボックスなどについても、背丈の高いものだと、「上の二段を切り取ってもらったら使う」なんぞと言う。背丈の高い家具は圧迫感があって嫌だと、道理に合った理由なので、まあしょうがないかと応じることになる。自分にとってはさほどの手間でもないので、まあいいかということだ。
今日は、どちらか選んでもらおうと二つのモノ入れ棚ボックスを運んで行ったら、余った方の心配までしてくれたので気分が良かった。
「どうせ捨てることになるんなら、隣の家でもらってくれるかどうか聞いてあげようか」と言ってくれたのだ。そして、結果的には、喜んでもらってくれることになったのだ。 考えてみれば、不要物というのは、だれにとっても不要だというわけではない。欲しいと思う人もいるはずであろう。それを、壊して廃棄して、その際には廃棄処分エネルギーまで消費するというのが、自分のような世代にとってはいたたまれない。
だから、偶然にも欲しがる人が見つかったりすると、なぜだかとても救われた気分となるのである。
この間も、事務所の方で不要となったいろいろなモノを、打診しては持ち込むことになっている。別に押し付けということではなく、不便をしていると推定して打診してみると、「じゃあ、使う」との回答があったりするのだ。ただ、おふくろは唯々諾々とするタイプではないため、気に入ったモノは大いに喜ぶ反面、そうでない場合は "前向きでの注文" を出す。
モノ入れ棚ボックスなどについても、背丈の高いものだと、「上の二段を切り取ってもらったら使う」なんぞと言う。背丈の高い家具は圧迫感があって嫌だと、道理に合った理由なので、まあしょうがないかと応じることになる。自分にとってはさほどの手間でもないので、まあいいかということだ。
今日は、どちらか選んでもらおうと二つのモノ入れ棚ボックスを運んで行ったら、余った方の心配までしてくれたので気分が良かった。
「どうせ捨てることになるんなら、隣の家でもらってくれるかどうか聞いてあげようか」と言ってくれたのだ。そして、結果的には、喜んでもらってくれることになったのだ。 考えてみれば、不要物というのは、だれにとっても不要だというわけではない。欲しいと思う人もいるはずであろう。それを、壊して廃棄して、その際には廃棄処分エネルギーまで消費するというのが、自分のような世代にとってはいたたまれない。
だから、偶然にも欲しがる人が見つかったりすると、なぜだかとても救われた気分となるのである。
ところで、昨今は、廃品回収についてはさまざまな制約が付くようになってしまったが、以前には結構 "大らか" な時期があった。
名古屋で、院生という経済的には不安定な生活をしていた頃のことである。そんな生活者にとって、月に一、二度、実に有難い機会があった。住まいのすぐ近くの角に、 "粗大ゴミ" 回収置き場が "開催" されたのである。
もともと、中古品を気にしないどころか、使えるモノの価値を十分に尊重するポリシーの自分にとっては、ヘンな話であるがその "コーナー" はまるで "骨董屋" を覗くような興奮さえ覚えたものであった。
古机やテーブルに椅子など、ならば使わせてもらいましょうとばかりにいろいろと物色させてもらった覚えがある。惨めっぽい感触はほとんどなかった。
そう言えば、子どもの三輪車まで見つけたこともあった。ペンキを塗り直し、安上がりな部品交換をして子どもに宛がったことも覚えている。
さすがに、子どもや家内は口には出さなかったが不服そうにしていたようだ......。
当時のその "大らか" さは、大袈裟に言えば "相互扶助" 的な空気で支えられていたのかもしれない。実に合理的な "リサイクル" システムだったように思える。ただ、もし現在同じようなことを当局が許可したとするならば、どんなことが起きるかは大体想像がつく。つまり、営利目的の業者たちが我先に争って奪い合い、そうした "コーナー" は修羅場と化すのではなかろうか。
当時に比べて、現在は、とにかく何もかもが "市場的欲得づく" となってしまっている。そしてその陰で、市場の論理の破綻としか言えないような、ムダでもったいないとしか言いようのない大量廃棄処分が日常化している。もっと合理的な "リサイクル" システムが行われるべきではなかろうか...... (2009.07.11)
名古屋で、院生という経済的には不安定な生活をしていた頃のことである。そんな生活者にとって、月に一、二度、実に有難い機会があった。住まいのすぐ近くの角に、 "粗大ゴミ" 回収置き場が "開催" されたのである。
もともと、中古品を気にしないどころか、使えるモノの価値を十分に尊重するポリシーの自分にとっては、ヘンな話であるがその "コーナー" はまるで "骨董屋" を覗くような興奮さえ覚えたものであった。
古机やテーブルに椅子など、ならば使わせてもらいましょうとばかりにいろいろと物色させてもらった覚えがある。惨めっぽい感触はほとんどなかった。
そう言えば、子どもの三輪車まで見つけたこともあった。ペンキを塗り直し、安上がりな部品交換をして子どもに宛がったことも覚えている。
さすがに、子どもや家内は口には出さなかったが不服そうにしていたようだ......。
当時のその "大らか" さは、大袈裟に言えば "相互扶助" 的な空気で支えられていたのかもしれない。実に合理的な "リサイクル" システムだったように思える。ただ、もし現在同じようなことを当局が許可したとするならば、どんなことが起きるかは大体想像がつく。つまり、営利目的の業者たちが我先に争って奪い合い、そうした "コーナー" は修羅場と化すのではなかろうか。
当時に比べて、現在は、とにかく何もかもが "市場的欲得づく" となってしまっている。そしてその陰で、市場の論理の破綻としか言えないような、ムダでもったいないとしか言いようのない大量廃棄処分が日常化している。もっと合理的な "リサイクル" システムが行われるべきではなかろうか...... (2009.07.11)
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