モノを片付けるとは、 "分類" することで秩序づけるということになろうか。
重いモノを動かしながら片付けるという作業も疲れるが、この "分類" しながら秩序づけるという頭を使う作業もどうしてなかなか気疲れを誘うものだ。
そして、片づけが進むと、当然のごとく、まるで "分類不能" と思われるようなモノばかりが残ってしまったりする。そして、そういうモノが散らばっているのがいつまでも視界に入っていると、やれやれというように疲れがどっと出てくるわけだ。
まるで、私たちをどうしてくれるの? と言い張っているように見えて、それでいて細かいことに気を遣うのがもはや億劫というほどに疲れていたりすると、いやー、ひとまとめに捨ててしまおうか......、という気分にさえなりかねない。
重いモノを動かしながら片付けるという作業も疲れるが、この "分類" しながら秩序づけるという頭を使う作業もどうしてなかなか気疲れを誘うものだ。
そして、片づけが進むと、当然のごとく、まるで "分類不能" と思われるようなモノばかりが残ってしまったりする。そして、そういうモノが散らばっているのがいつまでも視界に入っていると、やれやれというように疲れがどっと出てくるわけだ。
まるで、私たちをどうしてくれるの? と言い張っているように見えて、それでいて細かいことに気を遣うのがもはや億劫というほどに疲れていたりすると、いやー、ひとまとめに捨ててしまおうか......、という気分にさえなりかねない。
翻って考えてみると、考えるという行為の多くの部分が、この "分類" という思考過程で構成されているようだ。
人に限らず、動物も含めて、考え、判断する存在は、常に頭の中で "分類" 作業をしているのかもしれない。遭遇する目の前の何かを、経験上作り上げてきたさまざまな "分類枠" 、それはあたかも無数の "引き出し" のようなものにも例えられるが、そうした入れ物に仕分けているような気がする。それが "分類" という思考過程なのだろう。
なお、歳をとり経験を重ねて行くと、いつの間にかそうした "引き出し" の数が増えるようだ。極端に言えば、IQの低い動物や、年少者は、その "引き出し" の数が極めて乏しく、別な言い方をすれば、極めて "大胆な分類" を仕出かしていそうだ。
これは、食べられるモノかどうか、これは安全かどうか、こいつとは闘うべきかそれとも逃げるべきか......、といったようなシンプルな "分類" 作業をしているのではないかと推測される。
こうした観点で "分類" ということを考えると興味が尽きないわけだが、今、注目するのは、 "分類疲れ" というような点なのである。
現代という時代環境は、一方でさまざまなモノが手際よく "分類" され、そのためのシステムが高度化したり、また、人の感覚も "分類" されて秩序立った環境になることこそが安心なのだと感じるようになっていそうだ。
だが、もう片方では、時代の進展の必然的結果として "新規な" モノや事象が次から次へと生まれている。そしてそれらの "新規さ" は当然のように従来からの "分類枠" を拒み、その結果 "分類不能" という事態を生み出す。
つまり、一方では旺盛な "分類" 作業が進展し、同時に、それとは裏腹に "分類不能" という事態が発生している、そんな "アンビバレンツ" こそが現代という時代のような気がするのである。
"分類疲れ" という妙な空気はこんな "アンビバレンツ" の状況から生じているのかなぁ、とつらつら考えたりするのである...... (2009.07.14)
人に限らず、動物も含めて、考え、判断する存在は、常に頭の中で "分類" 作業をしているのかもしれない。遭遇する目の前の何かを、経験上作り上げてきたさまざまな "分類枠" 、それはあたかも無数の "引き出し" のようなものにも例えられるが、そうした入れ物に仕分けているような気がする。それが "分類" という思考過程なのだろう。
なお、歳をとり経験を重ねて行くと、いつの間にかそうした "引き出し" の数が増えるようだ。極端に言えば、IQの低い動物や、年少者は、その "引き出し" の数が極めて乏しく、別な言い方をすれば、極めて "大胆な分類" を仕出かしていそうだ。
これは、食べられるモノかどうか、これは安全かどうか、こいつとは闘うべきかそれとも逃げるべきか......、といったようなシンプルな "分類" 作業をしているのではないかと推測される。
こうした観点で "分類" ということを考えると興味が尽きないわけだが、今、注目するのは、 "分類疲れ" というような点なのである。
現代という時代環境は、一方でさまざまなモノが手際よく "分類" され、そのためのシステムが高度化したり、また、人の感覚も "分類" されて秩序立った環境になることこそが安心なのだと感じるようになっていそうだ。
だが、もう片方では、時代の進展の必然的結果として "新規な" モノや事象が次から次へと生まれている。そしてそれらの "新規さ" は当然のように従来からの "分類枠" を拒み、その結果 "分類不能" という事態を生み出す。
つまり、一方では旺盛な "分類" 作業が進展し、同時に、それとは裏腹に "分類不能" という事態が発生している、そんな "アンビバレンツ" こそが現代という時代のような気がするのである。
"分類疲れ" という妙な空気はこんな "アンビバレンツ" の状況から生じているのかなぁ、とつらつら考えたりするのである...... (2009.07.14)
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