梅雨に逆戻りしたような雨天である。室温を見ると30.8度、湿度60%となっている。
朝一で、雨に濡れながら庭の工事に関するちょっとした力仕事をした。その後は、所在無くTVを観て過ごした。
たまたま、1971年アカデミー賞受賞の『パールハーバー』をやっていた。
感想その一、やはりアメリカ映画は "個人の視点" からというか、個人の主人公を軸として歴史的、社会的事実を再編集するのが得意なんだな、と思った。
感想その二、まあアメリカ映画であるから当然といえば当然なのかもしれないが、日本(軍)の描き方がいかにも手抜きであった。軍の本営地に鳥居が祀られていたり、軍議のデスクが竹で編んだものが設えられていたり、まったくリアリティに欠ける絵には驚かされた。歴史的事実を題材にしているのであれば、もう少し考証が必要であろう。
感想その三、真珠湾攻撃に出動した戦闘機零戦が飛び交う絵は、CGを駆使してさながらゲーム機の画面のようなスピード感があった。良い悪いではなく、CG技術が駆使されることよって戦争映画は確実に変わったと感じた。
朝一で、雨に濡れながら庭の工事に関するちょっとした力仕事をした。その後は、所在無くTVを観て過ごした。
たまたま、1971年アカデミー賞受賞の『パールハーバー』をやっていた。
感想その一、やはりアメリカ映画は "個人の視点" からというか、個人の主人公を軸として歴史的、社会的事実を再編集するのが得意なんだな、と思った。
感想その二、まあアメリカ映画であるから当然といえば当然なのかもしれないが、日本(軍)の描き方がいかにも手抜きであった。軍の本営地に鳥居が祀られていたり、軍議のデスクが竹で編んだものが設えられていたり、まったくリアリティに欠ける絵には驚かされた。歴史的事実を題材にしているのであれば、もう少し考証が必要であろう。
感想その三、真珠湾攻撃に出動した戦闘機零戦が飛び交う絵は、CGを駆使してさながらゲーム機の画面のようなスピード感があった。良い悪いではなく、CG技術が駆使されることよって戦争映画は確実に変わったと感じた。
追記したいのは、感想その一の "個人の視点" 云々という点についてである。
常々思うことなのである。人間が何かの事実について感じたり考えたりする場合、もちろんそれらは "個人" としての立場でしかできないわけだが、果たして、どんな対象に対しても同一の "視点" で万能的に対処することができる、あるいはそうして良いのであろうか。
つまり、きわめて卑近なプライベートな領域での出来事について感じたり考えたりする場合と、社会的出来事や歴史的出来事などについて感じたり考えたりする場合とが、一本槍の "個人の視点" で賄い切れるものなのかどうかという疑問なのである。
プライベートな領域での出来事などについてはもちろんそれで間に合うだろう。(ただ、昨今のプライベートな領域での出来事は、社会的次元に根深く根ざしてもいるので、単純な個人的感覚だけで歯が立つのかどうかは疑問だ......)しかし、社会的出来事や歴史的出来事などについてはちょっとした "変換フィルター" のようなものが必要となるのではなかろうか。
特に、仮にも戦争というような歴史的事実に迫ろうとする場合、 "個人の視点" だけではいかにも見えないものが多すぎると思える。それをムリするならば、歴史的事実そのものが狭い死角の中で単純化されてしまい、戦争って悲惨だ、という感覚だけで終わってしまいそうな気がしないでもない。つまり、自然災害での悲惨さと同一視されないとも限らないという懸念なのである。
少なくとも、歴史的事実や社会的事実に接する場合には、多少とも常識的な歴史的知識や社会的知識が不可欠であり、それらによって "個人の視点" が陥りがちな "感覚的" バイアスから自由となるべきだろうと思うわけである。そうした配慮が無い場合には、個人は容易に単純な "愛憎感覚" といった "個人の視点" で事実を歪めてしまう危険があるからだ。
そうした問題もさることながら、現代という時代環境は、何でも "個人の視点" を万能的な "十徳ナイフ(多用途ナイフ)" のごとくに愛用し過ぎることにも懸念している。
もちろん、空疎なイデオロギーなどを解毒するために "等身大的な視点" でものを考える姿勢は重要である。しかし、そうだからといって、その分野に関する常識的な知識も踏まえずに、個人的な感覚だけで事に当たるのは、小さなナイフだけで相応の大きさの建造物全体を解体しようとするようなもののように思える。
今、政治家たちが "わかりやすさ" というフレーズをよく口にするし、またマス・メディアもその路線をひた走っている。一面でその必要性を認めはするものの、それが終局の正解だとは言い難いと感じている。誰にでもわかるという視点に拘り過ぎると、社会全体に "赤ちゃんことば" が蔓延して、それこそわけがわからなくなりはしないか......。
明日から "裁判員制度" が実施されるそうだが、ついでながら、これについても同じような観点での危惧を感じている...... (2009.08.02)
常々思うことなのである。人間が何かの事実について感じたり考えたりする場合、もちろんそれらは "個人" としての立場でしかできないわけだが、果たして、どんな対象に対しても同一の "視点" で万能的に対処することができる、あるいはそうして良いのであろうか。
つまり、きわめて卑近なプライベートな領域での出来事について感じたり考えたりする場合と、社会的出来事や歴史的出来事などについて感じたり考えたりする場合とが、一本槍の "個人の視点" で賄い切れるものなのかどうかという疑問なのである。
プライベートな領域での出来事などについてはもちろんそれで間に合うだろう。(ただ、昨今のプライベートな領域での出来事は、社会的次元に根深く根ざしてもいるので、単純な個人的感覚だけで歯が立つのかどうかは疑問だ......)しかし、社会的出来事や歴史的出来事などについてはちょっとした "変換フィルター" のようなものが必要となるのではなかろうか。
特に、仮にも戦争というような歴史的事実に迫ろうとする場合、 "個人の視点" だけではいかにも見えないものが多すぎると思える。それをムリするならば、歴史的事実そのものが狭い死角の中で単純化されてしまい、戦争って悲惨だ、という感覚だけで終わってしまいそうな気がしないでもない。つまり、自然災害での悲惨さと同一視されないとも限らないという懸念なのである。
少なくとも、歴史的事実や社会的事実に接する場合には、多少とも常識的な歴史的知識や社会的知識が不可欠であり、それらによって "個人の視点" が陥りがちな "感覚的" バイアスから自由となるべきだろうと思うわけである。そうした配慮が無い場合には、個人は容易に単純な "愛憎感覚" といった "個人の視点" で事実を歪めてしまう危険があるからだ。
そうした問題もさることながら、現代という時代環境は、何でも "個人の視点" を万能的な "十徳ナイフ(多用途ナイフ)" のごとくに愛用し過ぎることにも懸念している。
もちろん、空疎なイデオロギーなどを解毒するために "等身大的な視点" でものを考える姿勢は重要である。しかし、そうだからといって、その分野に関する常識的な知識も踏まえずに、個人的な感覚だけで事に当たるのは、小さなナイフだけで相応の大きさの建造物全体を解体しようとするようなもののように思える。
今、政治家たちが "わかりやすさ" というフレーズをよく口にするし、またマス・メディアもその路線をひた走っている。一面でその必要性を認めはするものの、それが終局の正解だとは言い難いと感じている。誰にでもわかるという視点に拘り過ぎると、社会全体に "赤ちゃんことば" が蔓延して、それこそわけがわからなくなりはしないか......。
明日から "裁判員制度" が実施されるそうだが、ついでながら、これについても同じような観点での危惧を感じている...... (2009.08.02)
コメントする