昨今は買い物に出かけて、 "安いモノ" に出会ったり、下一桁の何円という表示をみるとうれしいとかという感覚よりも、何故だかヘンな胸騒ぎがしたりする。
この "安さ" のためにメーカーや生産者たちがどんなにか泣いていることかと想像してしまうのだ。あるいは、このコストダウンのためにどんなに世知辛い "合理化" がなされて、あっても当然であろう "隙間や遊び" が抹殺されてしまっているか......、などと感じてしまうのである。
ただ、このところ再び上昇気味となっているガソリン価格については、またまた "投機筋" の仕業だと明瞭に読み取れるため不快感が募り、低価格化すれば安堵感を持つだろうことは予想できる。
こう言うと、 "コストダウン競争" という今や常識的なビジネス風潮に真っ向から逆らっているかのようでもある。確かにそうなのだ。そうした風潮をリアルに認識して、それに有効な形で対処しなければ勝ち残れないであろうことは重々わかっている。
この "安さ" のためにメーカーや生産者たちがどんなにか泣いていることかと想像してしまうのだ。あるいは、このコストダウンのためにどんなに世知辛い "合理化" がなされて、あっても当然であろう "隙間や遊び" が抹殺されてしまっているか......、などと感じてしまうのである。
ただ、このところ再び上昇気味となっているガソリン価格については、またまた "投機筋" の仕業だと明瞭に読み取れるため不快感が募り、低価格化すれば安堵感を持つだろうことは予想できる。
こう言うと、 "コストダウン競争" という今や常識的なビジネス風潮に真っ向から逆らっているかのようでもある。確かにそうなのだ。そうした風潮をリアルに認識して、それに有効な形で対処しなければ勝ち残れないであろうことは重々わかっている。
しかし、店頭に並ぶ商品の価格が下がって、そのために販売現場や市場が息苦しいほどのシビァさをかもしていることが、妙な胸騒ぎを呼び起こすことも無視できない。
以前にも書いたとおり、デフレの基本的特徴として、商品の価格低下がやがて消費者の収入源での悪影響をもたらすという事情が言うまでもなく気になるわけだ。
つまり、現状を無視するようなコストダウンは、生産現場での無理な人件費抑制を呼び起こし、消費者のもうひとつの姿である勤労者の収入をどんどん減少させていく論理のことである。
あるいはまた、ドラスティックなコストダウンが有利で可能なのは、やはり大規模な経営体に限られるという事実もあろう。とすれば、中小零細規模の経営体は無謀なダンピングに突入するか、ビジネスの撤退かという厳しい選択に迫られる。ここでもまた、潜在的消費者たちが窮地に追い込まれることになる。
そんなこんなで、過剰なコストダウン競争は、当事者たる生産者やベンダーにじわじわと悪影響を及ぼし始める。それが、デフレという恐ろしいジレンマなのであろう。
こうしたデフレ現象が起こるのか、あるいは現在進行中であるのかは定かではない。
ただ、自分は、こうした経済現象のもっと根底にある、 "合理化" という文明の趨勢のようなものに対して、かなり "不快感" を抱くようになっているようだ。
折りしも、先日、衝撃的な映画『いのちの食べかた』(ドイツ映画、2009.08.04、WOWOW 放送)を観て、現代の文明は、 "いのち" ある動植物たち(家畜、野菜 etc.)をえげつないほどに犠牲にしているかということを思い知らされた。
しかも、その "いのち" の奪い方に関する "合理化" が、まさに目を背けたくなるほどのシステマティックさであり、慄然とさせられた。
観ていて、制作がドイツだということもあってか、あのナチスによる "アウシュビッツ" の大量虐殺を想起させるものであった。が、その暴挙は人間の "いのち" の破壊として行われたがゆえに暴挙であったわけだが、ほとんど同様なかたちのシステマティックさで、現時点でも動植物たちの "いのち" の破壊に対して淡々と遂行されているわけだ。
こう書くと、何を青臭いことを言っていると言われそうであるが、決して少女趣味的な次元で動植物たちの "いのち" を憐れんでいるわけではない。おそらく、この映画の監督がテーマとしたのもそうであるに違いないと思われるが、かれらの "いのち" の奪い方において、そこまでやるか! というような "合理化" 技術が、完璧に日常生活感覚を "逆撫で" して止まないのである。 "いのち" の破壊という事柄に関して、そこまで "合理化" を進めてしまう傲慢さ、そんなものが人間には存在するのだという点が、言葉を失わせるのであった。
時あたかも、今日は、 "原爆投下" による広島での "大虐殺" のあった日である。ここでも、戦争終結を急ぐという大義名分の下に、 "いのち" の奪い方の一大 "合理化" 技術が淡々と選択されたわけなのであろう...... (2009.08.06)
以前にも書いたとおり、デフレの基本的特徴として、商品の価格低下がやがて消費者の収入源での悪影響をもたらすという事情が言うまでもなく気になるわけだ。
つまり、現状を無視するようなコストダウンは、生産現場での無理な人件費抑制を呼び起こし、消費者のもうひとつの姿である勤労者の収入をどんどん減少させていく論理のことである。
あるいはまた、ドラスティックなコストダウンが有利で可能なのは、やはり大規模な経営体に限られるという事実もあろう。とすれば、中小零細規模の経営体は無謀なダンピングに突入するか、ビジネスの撤退かという厳しい選択に迫られる。ここでもまた、潜在的消費者たちが窮地に追い込まれることになる。
そんなこんなで、過剰なコストダウン競争は、当事者たる生産者やベンダーにじわじわと悪影響を及ぼし始める。それが、デフレという恐ろしいジレンマなのであろう。
こうしたデフレ現象が起こるのか、あるいは現在進行中であるのかは定かではない。
ただ、自分は、こうした経済現象のもっと根底にある、 "合理化" という文明の趨勢のようなものに対して、かなり "不快感" を抱くようになっているようだ。
折りしも、先日、衝撃的な映画『いのちの食べかた』(ドイツ映画、2009.08.04、WOWOW 放送)を観て、現代の文明は、 "いのち" ある動植物たち(家畜、野菜 etc.)をえげつないほどに犠牲にしているかということを思い知らされた。
しかも、その "いのち" の奪い方に関する "合理化" が、まさに目を背けたくなるほどのシステマティックさであり、慄然とさせられた。
観ていて、制作がドイツだということもあってか、あのナチスによる "アウシュビッツ" の大量虐殺を想起させるものであった。が、その暴挙は人間の "いのち" の破壊として行われたがゆえに暴挙であったわけだが、ほとんど同様なかたちのシステマティックさで、現時点でも動植物たちの "いのち" の破壊に対して淡々と遂行されているわけだ。
こう書くと、何を青臭いことを言っていると言われそうであるが、決して少女趣味的な次元で動植物たちの "いのち" を憐れんでいるわけではない。おそらく、この映画の監督がテーマとしたのもそうであるに違いないと思われるが、かれらの "いのち" の奪い方において、そこまでやるか! というような "合理化" 技術が、完璧に日常生活感覚を "逆撫で" して止まないのである。 "いのち" の破壊という事柄に関して、そこまで "合理化" を進めてしまう傲慢さ、そんなものが人間には存在するのだという点が、言葉を失わせるのであった。
時あたかも、今日は、 "原爆投下" による広島での "大虐殺" のあった日である。ここでも、戦争終結を急ぐという大義名分の下に、 "いのち" の奪い方の一大 "合理化" 技術が淡々と選択されたわけなのであろう...... (2009.08.06)
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