"排他性" 同士の嵐は吹き荒れるばかりか ......

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 今朝のウォーキング時に "不快な思い" をさせられた。
 いつもの遊歩道コースも半ばにきた時、前方から杖をついたお年寄りが向かってきた。杖をつきながらの散歩とはご苦労なことだと思えた。また、杖に触れてしまって転倒なぞのきっかけを作るまいと、老人が歩く反対側に寄りつつ通り過ぎようとした。
 と、その老人は、こちらに顔を向け、会釈をするでもなくただ笑みを湛えながら、こう言い放ったのである。
「今度の選挙では△□党に入れてください!」
と。実に唐突に、奇異に、とある宗教政党の名を口にしたのであった。
 自分は、その唐突さと、こんな場面でもするものなのかと呆れて開いた口がふさがらなかった。
「いやぁ、まぁ......」
と、はぐらかすほかなかった。が、自分は若干気分を損なっていた。まともに取り合う気には到底なれなかったのである。
 明日、公示され、 "政権選択選挙" と称される第45回衆議院選挙が始まる。
 その老人が属する宗教団体の地元支部の集いでは、たぶん、選挙ムードが異様に加熱しているのであろう。 "道を行く人、誰にでも声を掛けようではないか" とでも合意された経緯があったのかもしれない。 "熱心" な方なのであろう。それはそれでいい。
 だが、朝一番の "リフレッシュ" の好機、もっと言えば世相を超越した次元での "哲学的散歩(?)" の気分を、意表を衝いた、まるで "ゲリラ" 的行動によって撹乱(?)されたことに腹立たしく思わざるを得なかった。
 たぶん、 "礼儀" という問題なのだろうと思った。自分とともに、他人をも同様に尊重するとなれば、自分の気持ちが大事であるならば見ず知らずの他人の気持ちも可能な限り推測しなければならないはずだ。で、それが難しければ、他人の気持ちを撹乱したり踏みにじったりする可能性のある自分の言動を抑制するのが、それが最低限の "礼儀" というものであろう。そうしてこそ、個々人が恙無く共存できるはずだ。
 こんなことは、政治や宗教とは次元を異にしてさりげなくこなされていい。いや、こうした文化的レベルをこそ踏まえて政治活動にせよ宗教活動にせよ邁進してもらいたいものだと考える。

 難しいことを言っているつもりはない。というのは、政治活動にせよ宗教活動にせよ、その顕著な特徴は "排他性" にありそうだからだ。こんなことは、TVの政治討論番組を目にしていればいやというほどわかる。議論にも討論にもなっておらず、ただただ "排他性" を剥き出しにした "一方通行" の言葉の "連射" に過ぎないからだ。ほとんど、 "夫婦喧嘩" そのものではないか......。気取って言うわけではなく実に "虚しい" 限りだ。
 議論や討論ができる素養を持っていない、つまり "礼儀" というレイヤーが欠落した者たちばかりのような気がする。これがスポーツであれば、反則三昧ということになりゲームなんぞにならないことになろう。

 今のこの国がまともでないのは誰もが承知していそうだが、一番気になるのは、この "排他性" を超えるための "道具立て" を何も持たなくなってしまったことなのかもしれない。
 個々人は、 "自己主張" と称してまるでアナーキーに "排他性" を発揮する。少なくともそう見える場合が多い。また、あらゆる組織は、それらを "機械的に" 束ねて、新たに増幅した強面の "排他性" を設え、それで押しまくろうとする。
 一体、現状のこうした "えげつなさ" が表面化する前の時代風潮はどうであったのか、それがもはや思い出せないほどである。
 おそらく、この国とこの社会の伝統文化、庶民文化が健在であった頃には、この "排他性" が剥き出しとなる "みっともなさ" は目立ちにくく抑制されていたものと思われる。さしあたってそれは、 "世間体" という "諸刃の剣" を引き合いに出しても間違いではなかろう。要するに、 "礼儀" というものも成り立ち、そこそこにルールが成り立つプレーが行われていたとも言える。
 西欧社会では行儀の良い個人主義や市民社会が健在であった頃には、こうした "礼儀" が息づいていたのであろう。ただ、現状でも伝統文化を重視するヨーロッパではその名残がありそうだ。

 この日本で急速にこうした "礼儀" が頓挫し始めたのは、どうもグローバリゼーションのアクセルが踏み込まれた頃、とりわけワケのわからない "構造改革" が叫ばれ始めた頃からではないかと記憶している。そしてその立役者は小泉元首相ではなかったかと。彼は要するに、 "排他性" を助長こそすれ収拾する力が不足する市場原理、競争原理というものを過信したのだと思われる。そこに彼の洞察力の限界があったのだろう。
 いずれにしても、 "パンドラの箱" は開けられてしまい、 "排他性" 同士の嵐は吹き荒れるばかりかと見える。
  "排他性" とは、結局は "憎しみ、憎悪" だと言って良いのかもしれない。それらが、不毛な結果を導くことは誰もが知っていることではあるのだが...... (2009.08.17)












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