夕刻、突然、蝉時雨(せみしぐれ)が響き渡った。蝉時雨とは、多くの蝉が一斉に鳴きたてる声を時雨の降る音に見立てた語だという。夏の季語にもなっているようだ。
"迫力" のようなものを感じる。もうすでに、日中、あちこちのアスファルト歩道に "ひと足先" を決め込んでしまった蝉の姿を見かける頃である。それだけに、この世に参画した "いのち" たちが、知ってか知らずか、あたかも燃え尽きる前の死力を振り絞っているようでもあり、切々と迫るものがある。
きっと、長編小説『蝉時雨』を著した作家・藤沢周平も、儚さ(はかなさ)ゆえに "過激" に響きもする生きとし生けるものの "いのち" という不思議な存在を見つめざるを得なかったに違いない。
"迫力" のようなものを感じる。もうすでに、日中、あちこちのアスファルト歩道に "ひと足先" を決め込んでしまった蝉の姿を見かける頃である。それだけに、この世に参画した "いのち" たちが、知ってか知らずか、あたかも燃え尽きる前の死力を振り絞っているようでもあり、切々と迫るものがある。
きっと、長編小説『蝉時雨』を著した作家・藤沢周平も、儚さ(はかなさ)ゆえに "過激" に響きもする生きとし生けるものの "いのち" という不思議な存在を見つめざるを得なかったに違いない。
人の感情や想いは、ただ一筋の道理、 "いのちの有限" 、今風にふざけるならば "限定版! いのち" であるからこそ "息づく" のだろう。
若い時分には、観念的なアクセサリーほどの意味しか持ち得なかったそんな道理が、やはりそこそこの歳を迎えると、日毎に重みを感じるようになる。
そんな道理に逆らうように、古代には "永遠" の "いのち" を求めた者もいたと言う。秦の始皇帝もその一人で、それを叶えるクスリを探させたともいうし、それを促進するという長寿薬としてこともあろうに "水銀" を服用し続けたらしい。
そんな話に接すると、愚かしさがどうこうと言うよりも、 "いのち" にまつわる自然な道理を踏み外す時、度し難い内面のアンバランスを招来することになり、致命的な判断の間違いへと突き進む、と考えざるを得ない。
どんなにサイエンスや技術が発展しようとも、この道理、 "限定版! いのち" だからこそ、心が "息づく" 、というシンプルな事実を改変させることは先ず不可能であるに違いない。
昨日も触れた "薬物依存、汚染" はこの時代の象徴的な問題でありそうだが、この問題の根底にも、そんな道理の切捨てが潜んでいそうな気がする。
"いのちの有限" をそっちのけにする文明のツケ、つまりまともに死と向かい合えないところから来る避けられない "心の萎え" 、それが安直に即効性のある "治療薬" を求めさせる、というような......。
"覚醒剤" への動機は、一見、千差万別ではあろうが、よく言われるように心の "高揚感" を求めるからだとすれば、それが "無い" というステイタスだけは共通しているのではなかろうか。 "心の萎え" という日常状態である。
そして、これが決して特殊な環境の現代人だけの状態ではないところに、この危険な "誘惑" の恐ろしさと、時代性があるのだろうと思える。
ふと、新型インフルエンザの "パンデミック・フルー" のことが想起される。もちろん、 "覚醒剤" は、ウイルスのように知らず知らずのうちに体内化されるものではない。
だが、 "覚醒剤" への動機が遍在し、その動機解消に決め手が乏しいとなると、危険が遠のいたことにはならないのだろう。
自然が埋め込んだ "いのち" の道理に沿って、 "心の躍動" を取り戻す訓練、リハビリが思いのほか重要なことでありそうだ。新型インフルエンザ対策が、結局、手洗いやうがいに帰着するのと変わらないと言うべきか。
派手に蝉時雨を仕出かす蝉たちを、あながち見下すべきではなかろう。 "一寸の虫にも五分の魂" とも言うし...... (2009.08.21)
若い時分には、観念的なアクセサリーほどの意味しか持ち得なかったそんな道理が、やはりそこそこの歳を迎えると、日毎に重みを感じるようになる。
そんな道理に逆らうように、古代には "永遠" の "いのち" を求めた者もいたと言う。秦の始皇帝もその一人で、それを叶えるクスリを探させたともいうし、それを促進するという長寿薬としてこともあろうに "水銀" を服用し続けたらしい。
そんな話に接すると、愚かしさがどうこうと言うよりも、 "いのち" にまつわる自然な道理を踏み外す時、度し難い内面のアンバランスを招来することになり、致命的な判断の間違いへと突き進む、と考えざるを得ない。
どんなにサイエンスや技術が発展しようとも、この道理、 "限定版! いのち" だからこそ、心が "息づく" 、というシンプルな事実を改変させることは先ず不可能であるに違いない。
昨日も触れた "薬物依存、汚染" はこの時代の象徴的な問題でありそうだが、この問題の根底にも、そんな道理の切捨てが潜んでいそうな気がする。
"いのちの有限" をそっちのけにする文明のツケ、つまりまともに死と向かい合えないところから来る避けられない "心の萎え" 、それが安直に即効性のある "治療薬" を求めさせる、というような......。
"覚醒剤" への動機は、一見、千差万別ではあろうが、よく言われるように心の "高揚感" を求めるからだとすれば、それが "無い" というステイタスだけは共通しているのではなかろうか。 "心の萎え" という日常状態である。
そして、これが決して特殊な環境の現代人だけの状態ではないところに、この危険な "誘惑" の恐ろしさと、時代性があるのだろうと思える。
ふと、新型インフルエンザの "パンデミック・フルー" のことが想起される。もちろん、 "覚醒剤" は、ウイルスのように知らず知らずのうちに体内化されるものではない。
だが、 "覚醒剤" への動機が遍在し、その動機解消に決め手が乏しいとなると、危険が遠のいたことにはならないのだろう。
自然が埋め込んだ "いのち" の道理に沿って、 "心の躍動" を取り戻す訓練、リハビリが思いのほか重要なことでありそうだ。新型インフルエンザ対策が、結局、手洗いやうがいに帰着するのと変わらないと言うべきか。
派手に蝉時雨を仕出かす蝉たちを、あながち見下すべきではなかろう。 "一寸の虫にも五分の魂" とも言うし...... (2009.08.21)
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