"小さな金魚鉢" で飼われた金魚たちは、 "広い水槽" に移されても中々新しい水槽のその広さには馴染めないと聞いた。小さな範囲をぐるぐると回っているとか......。
しかし、やがてその金魚たちも鼻ッ端をぶつける壁がないことに気づいたり、車幅感覚とでも言えそうな行動感覚が慣れるに及ぶと広い水中エリアをスイスイと泳ぐことになるらしい。
"小さな金魚鉢" とは、われわれに即して言うならば、とかく "閉ざされていた" 従来の生活空間のことである。そして、 "広い水槽" とは言うまでもなく "グローバリズム経済後の現代" の生活空間である。
ところで、われわれは上記の金魚たちのように、<行動感覚が慣れるに及ぶと広い水中エリアをスイスイと泳ぐ>というような楽観的帰結に至っているのであろうか。
しかし、やがてその金魚たちも鼻ッ端をぶつける壁がないことに気づいたり、車幅感覚とでも言えそうな行動感覚が慣れるに及ぶと広い水中エリアをスイスイと泳ぐことになるらしい。
"小さな金魚鉢" とは、われわれに即して言うならば、とかく "閉ざされていた" 従来の生活空間のことである。そして、 "広い水槽" とは言うまでもなく "グローバリズム経済後の現代" の生活空間である。
ところで、われわれは上記の金魚たちのように、<行動感覚が慣れるに及ぶと広い水中エリアをスイスイと泳ぐ>というような楽観的帰結に至っているのであろうか。
もう一度、金魚たちの話に戻る。金魚たちの身の丈に見合った "小さな金魚鉢" ではなく、 "広い水槽" となると、その "広さ" に見合った "より大きな生物" がいたとしても不思議ではなさそうである。そして、それが "挙動不審" な金魚たちをこれ幸いとばかりに呑み込んだとしても、これまた不思議ではない。
金魚たちの生育を暖かく見守る者の手によって管理された "広い水槽" でない限り、そうした熾烈な "弱肉強食" 原理が貫徹して行くことはままある。
われわれは、金魚たちの "運命" を他人事としてそう簡単に楽観視できるのだろうか......。
一気に浸透、蔓延してしまったグローバリズム経済、およびその影響下でわれわれは生活している。そのグローバリゼーションの現実を、明るさ一色だけで受けとめる時期は確実に過ぎたのかもしれない。
国境の壁を越えてあらゆるモノ(ウイルスもまた)がリアルタイムで流通する世界の便利さ、その気があれば海外市場にも打って出られる経済活動の可能性拡大など表面的には "発展" した時代環境そのもののようにも見えないわけではない。
しかし、競争環境の激化、従来の競争という言葉のイメージを大幅に塗り替えてしまったような "大競争時代" という側面が、グローバリズム経済の正体であることを改めて見つめるべきだろう。
そこには、従来の競争という言葉に含まれていたであろう、競争があるから発展があるという牧歌的イメージを嘲笑うような強面がありそうだ。
大国でさえ、グローバリズム経済によるマイナスのしわ寄せに対処すべく "保護政策" (ex.ロシアは日本からの中古車輸入に対して高額の関税を掛け、米国は中国製タイヤの輸入制限[上乗せ関税]に出た)を打ち出し始めているのが実情なのだ。
で、今日書こうとしたのは、冒頭の金魚たちの話ではないが、われわれ個々人の生活感覚(思考活動を含む)が強まりつつあるグローバリズム経済環境の世界と "かみ合って" いるのかどうか、という点であった。
"正しくかみ合って(勝間和代のごとく)" 、この世界が今巻き起こしている風を背に受けて順風満帆となりたい向きもあろうし、あるいは逆に、 "迷惑顔" となりながらも一矢報いてみたいと思う向きも当然あるだろう。自分の場合は、どちらかと言えば後者なのかもしれない。
だがいずれにしても、多分、 "付加逆的" だとも見なせるグローバリゼーション驀進の、その存立構造と "かみ合って" いなければならないとは考えている。
実に世界のあり方は想像以上に様変わりし、われわれの頭や身体の内部のさまざまと大きな齟齬を呈していることは否めない。そこからわけのわからない不安と内面破壊も生じ、わけのわからない犯罪が後を絶たないことにもつながっていそうか...... (2009.09.12)
金魚たちの生育を暖かく見守る者の手によって管理された "広い水槽" でない限り、そうした熾烈な "弱肉強食" 原理が貫徹して行くことはままある。
われわれは、金魚たちの "運命" を他人事としてそう簡単に楽観視できるのだろうか......。
一気に浸透、蔓延してしまったグローバリズム経済、およびその影響下でわれわれは生活している。そのグローバリゼーションの現実を、明るさ一色だけで受けとめる時期は確実に過ぎたのかもしれない。
国境の壁を越えてあらゆるモノ(ウイルスもまた)がリアルタイムで流通する世界の便利さ、その気があれば海外市場にも打って出られる経済活動の可能性拡大など表面的には "発展" した時代環境そのもののようにも見えないわけではない。
しかし、競争環境の激化、従来の競争という言葉のイメージを大幅に塗り替えてしまったような "大競争時代" という側面が、グローバリズム経済の正体であることを改めて見つめるべきだろう。
そこには、従来の競争という言葉に含まれていたであろう、競争があるから発展があるという牧歌的イメージを嘲笑うような強面がありそうだ。
大国でさえ、グローバリズム経済によるマイナスのしわ寄せに対処すべく "保護政策" (ex.ロシアは日本からの中古車輸入に対して高額の関税を掛け、米国は中国製タイヤの輸入制限[上乗せ関税]に出た)を打ち出し始めているのが実情なのだ。
で、今日書こうとしたのは、冒頭の金魚たちの話ではないが、われわれ個々人の生活感覚(思考活動を含む)が強まりつつあるグローバリズム経済環境の世界と "かみ合って" いるのかどうか、という点であった。
"正しくかみ合って(勝間和代のごとく)" 、この世界が今巻き起こしている風を背に受けて順風満帆となりたい向きもあろうし、あるいは逆に、 "迷惑顔" となりながらも一矢報いてみたいと思う向きも当然あるだろう。自分の場合は、どちらかと言えば後者なのかもしれない。
だがいずれにしても、多分、 "付加逆的" だとも見なせるグローバリゼーション驀進の、その存立構造と "かみ合って" いなければならないとは考えている。
実に世界のあり方は想像以上に様変わりし、われわれの頭や身体の内部のさまざまと大きな齟齬を呈していることは否めない。そこからわけのわからない不安と内面破壊も生じ、わけのわからない犯罪が後を絶たないことにもつながっていそうか...... (2009.09.12)
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