このところ、クルマを使わずにもっぱら "歩き" と "チャリンコ" に徹している。
しかし、あまりにクルマから遠ざかると、ここでもまた "勘" が鈍ってしまうようだ。
今日は、恒例の墓参りにクルマで出かけた。おふくろや家内を同乗させなければならなかったからだ。
自分でも何となく "ご無沙汰感" がなしとはしなかった。おまけに、多少寝不足という点が災いしていたかもしれない。
月に一度、もう何十回となく走っている道を、危うく間違えそうになってしまった。それがひとつであり、もうひとつは、立ち寄ったショップの駐車場で、バックの際にバンパーの角を壁に接触させてしまったのである。幸い、物損にもならず、クルマへの損傷もほとんどなくて済んだ。
それにしても、 "勘" が鈍るとはこういったことを言うのかと驚いた。よくペーパー・ドライバーの危険がささやかれるが、まさにそのとおりではないかと思う。
身体の振る舞い(運動神経?)の "慣れ" というのは恐るべしと言うほかない。トラックなどをレンタカーで借りた時にも、スタート時は何やらぎこちない感触である。が、4、5分も操っているとほとんど違和感を感じなくなる。これもまた "慣れ" なのであろう。
しかし、あまりにクルマから遠ざかると、ここでもまた "勘" が鈍ってしまうようだ。
今日は、恒例の墓参りにクルマで出かけた。おふくろや家内を同乗させなければならなかったからだ。
自分でも何となく "ご無沙汰感" がなしとはしなかった。おまけに、多少寝不足という点が災いしていたかもしれない。
月に一度、もう何十回となく走っている道を、危うく間違えそうになってしまった。それがひとつであり、もうひとつは、立ち寄ったショップの駐車場で、バックの際にバンパーの角を壁に接触させてしまったのである。幸い、物損にもならず、クルマへの損傷もほとんどなくて済んだ。
それにしても、 "勘" が鈍るとはこういったことを言うのかと驚いた。よくペーパー・ドライバーの危険がささやかれるが、まさにそのとおりではないかと思う。
身体の振る舞い(運動神経?)の "慣れ" というのは恐るべしと言うほかない。トラックなどをレンタカーで借りた時にも、スタート時は何やらぎこちない感触である。が、4、5分も操っているとほとんど違和感を感じなくなる。これもまた "慣れ" なのであろう。
そう言えば、いつであったか "ラジオ体操" の効用という話題があった。もう何年も続けているので体力増強になっているというお年寄りが、いや、それは違うんです、とにべもなく指摘されていた。
"ラジオ体操" の真価というのは、体力の増強ではなく、身体の振る舞い(運動神経?)の活性化、もっと言えば、身体の振る舞いと脳の働きとの "同期を合わせる" ことなのだそうだ。脳からの指令と身体の振る舞いとが一致していることを実感する、しっかりと脳と身体で実感することなのだそうだ。
たとえば、ちょっとした柵をまたぐ時など、足の上げ方の程度とそれを思い描く脳の側の働きとは、決していつも関数関係的だとは限らないのだという。だから、低い柵であるにもかかわらず、脳の方ではクリアしていると思いながら実際の足の上がり方が追いついておらずに、意外なありさまですっ転がることになったりもするらしい......。
身体の振る舞いと脳の働きとがピッタリと "同期を合わせる" ようにするためには、それこそ "練習" が必要であり、それによって "慣れ" が生まれるというのである。
昨日の話題の "リハビリ" の文脈のようでもありそうだが、そのとおりなのだ。いわゆる "リハビリ" というのは、決して特別なことではなくて、通常の無意識に行っている何気ない動作・振る舞いを意図的に強化して行うもののようである。
逆に言えば、人や動物の日常行動というものは、微小なレベルでの "リハビリ" 行動の連続でもあるわけで、これが途絶えると大なり小なりぎこちなくなり、その結果が、 "勘" の鈍りということになるのかもしれない。
またまた引き合いに出すことになるが、 "イチロー" の偉業の陰には、こうした体験的実感の尊重があったに違いないと思う。
バンパーの接触問題を "イチロー" にまで引っ張ってくるとは思いもよらなかったが...... (2009.09.21)
"ラジオ体操" の真価というのは、体力の増強ではなく、身体の振る舞い(運動神経?)の活性化、もっと言えば、身体の振る舞いと脳の働きとの "同期を合わせる" ことなのだそうだ。脳からの指令と身体の振る舞いとが一致していることを実感する、しっかりと脳と身体で実感することなのだそうだ。
たとえば、ちょっとした柵をまたぐ時など、足の上げ方の程度とそれを思い描く脳の側の働きとは、決していつも関数関係的だとは限らないのだという。だから、低い柵であるにもかかわらず、脳の方ではクリアしていると思いながら実際の足の上がり方が追いついておらずに、意外なありさまですっ転がることになったりもするらしい......。
身体の振る舞いと脳の働きとがピッタリと "同期を合わせる" ようにするためには、それこそ "練習" が必要であり、それによって "慣れ" が生まれるというのである。
昨日の話題の "リハビリ" の文脈のようでもありそうだが、そのとおりなのだ。いわゆる "リハビリ" というのは、決して特別なことではなくて、通常の無意識に行っている何気ない動作・振る舞いを意図的に強化して行うもののようである。
逆に言えば、人や動物の日常行動というものは、微小なレベルでの "リハビリ" 行動の連続でもあるわけで、これが途絶えると大なり小なりぎこちなくなり、その結果が、 "勘" の鈍りということになるのかもしれない。
またまた引き合いに出すことになるが、 "イチロー" の偉業の陰には、こうした体験的実感の尊重があったに違いないと思う。
バンパーの接触問題を "イチロー" にまで引っ張ってくるとは思いもよらなかったが...... (2009.09.21)
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