薄ら覚えでも、自分の言葉と記憶でものを書いたり喋ったりすることに徹したいと思っている。この日誌を書く場合にも、 "コピペ" (コピー&ペースト)でお茶を濁すことも少なくない。
確かに、不確かな情報を振り回すのは良くない。まして、不確かな "引用" をして何かを言おうとするのはまずい。ひょっとしたら、かつて、研究生活もどきをしていたこともあり、ことさら "出典" にこだわるクセがついてもいそうである。
情報の出所に正確であろうとすることは大事だし、そうしておけば、後日、その情報を再活用をする場合にも効果的である。
ただ、情報やその "出典" に正確であろうとする、そうしたことに拘泥することの弊害もまた確実にありそうな気がしている。
確かに、不確かな情報を振り回すのは良くない。まして、不確かな "引用" をして何かを言おうとするのはまずい。ひょっとしたら、かつて、研究生活もどきをしていたこともあり、ことさら "出典" にこだわるクセがついてもいそうである。
情報の出所に正確であろうとすることは大事だし、そうしておけば、後日、その情報を再活用をする場合にも効果的である。
ただ、情報やその "出典" に正確であろうとする、そうしたことに拘泥することの弊害もまた確実にありそうな気がしている。
そうしたことに拘泥していると、どうしても、自分の言葉や思い、考えというものが二の次になりがちだからである。特に、日誌などを書く場合は、その時その時のビビッドな思いこそが書き留められて然るべきはずである。それを引っ張り出すことに妙味があるとも言える。
ところが、前述のような正確さにこだわりはじめると、その作業にウエイトが掛かったり、あるいはそれに "忙殺" されたりして、大なり小なり、その時の思いというものが脇に置かれてしまったり、萎縮してしまったりする。
そうでなくとも、文章を書くという場合には、その時の曖昧でしかない思いや書く動機
が、さまざまな副次的事柄によって妨害されるものだ。
たとえば、書こうとする言葉の漢字がどうであったかとか、言葉の意味を取り違えてはいないかとか、はたまた、思い出し切れないことわざが気になったり......。
そして、それらを辞書やものの本によって確認しなければならなくなる。それはそれでいいのだが、そうして横道に逸れて時間を費やしているうちに、 "曖昧でしかない思いや書く動機" がさらにさらにぼやけたりする。さすがに、何を書こうとしていたかまでを失念することはないにしても、微妙な部分は消し飛んだりすることもままある。
これが "まずい" と思える弊害なのだ。文章というものは、初発の動機を温めつつ "一気呵成" に仕上げてこそ意味がありそうだ。特に、日誌などの場合はそうであるに違いない。
こんなことを考えていた時、久々に出す名前であるがあの "茂木健一郎" 氏は、どこかで書いていた。文章をしたためる際、できればその紙面以外に参考文献などを目にせず、自身の記憶だけに頼ろうとする......、と。それが "正解" なのだろうと共感した覚えがある。
そもそも、この日誌を書くことの理由のひとつでもあったのだが、この現代という化け物的な情報化環境にあっては、自分の言葉や思い、考えというものはとかく消し飛びがちである。
うかうかしていると、自分のそれだと勘違いさせられるほどに、外部の情報は内部に滑り込んでくる。そして、器用な者は、まるで森に棲むある種の野鳥たちのように、物真似的に鳴いてみせたりするわけだ。 "立て板に水" のごとくであるのはよしとしても、その大半が自身の脳で紡がれた言葉や思いではなく、外部の不特定な他者たちのものだったりする。何のことはない、自身が "反響" しているだけだったりするわけだ......。
もちろん、自身の......というものは、大したものであろうはずがない。しかし、その "貧弱さ" にもこだわることが重要なのだろうし、そうでなければいけない...... (2009.09.29)
ところが、前述のような正確さにこだわりはじめると、その作業にウエイトが掛かったり、あるいはそれに "忙殺" されたりして、大なり小なり、その時の思いというものが脇に置かれてしまったり、萎縮してしまったりする。
そうでなくとも、文章を書くという場合には、その時の曖昧でしかない思いや書く動機
が、さまざまな副次的事柄によって妨害されるものだ。
たとえば、書こうとする言葉の漢字がどうであったかとか、言葉の意味を取り違えてはいないかとか、はたまた、思い出し切れないことわざが気になったり......。
そして、それらを辞書やものの本によって確認しなければならなくなる。それはそれでいいのだが、そうして横道に逸れて時間を費やしているうちに、 "曖昧でしかない思いや書く動機" がさらにさらにぼやけたりする。さすがに、何を書こうとしていたかまでを失念することはないにしても、微妙な部分は消し飛んだりすることもままある。
これが "まずい" と思える弊害なのだ。文章というものは、初発の動機を温めつつ "一気呵成" に仕上げてこそ意味がありそうだ。特に、日誌などの場合はそうであるに違いない。
こんなことを考えていた時、久々に出す名前であるがあの "茂木健一郎" 氏は、どこかで書いていた。文章をしたためる際、できればその紙面以外に参考文献などを目にせず、自身の記憶だけに頼ろうとする......、と。それが "正解" なのだろうと共感した覚えがある。
そもそも、この日誌を書くことの理由のひとつでもあったのだが、この現代という化け物的な情報化環境にあっては、自分の言葉や思い、考えというものはとかく消し飛びがちである。
うかうかしていると、自分のそれだと勘違いさせられるほどに、外部の情報は内部に滑り込んでくる。そして、器用な者は、まるで森に棲むある種の野鳥たちのように、物真似的に鳴いてみせたりするわけだ。 "立て板に水" のごとくであるのはよしとしても、その大半が自身の脳で紡がれた言葉や思いではなく、外部の不特定な他者たちのものだったりする。何のことはない、自身が "反響" しているだけだったりするわけだ......。
もちろん、自身の......というものは、大したものであろうはずがない。しかし、その "貧弱さ" にもこだわることが重要なのだろうし、そうでなければいけない...... (2009.09.29)
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