難しいのは、 "どうするか?" ではなくて "何をするか?" ということなのかなぁ、と思う。
いや、いつもながらのことだが、何がどうというのではなくて "茫漠と" そう思うのである。
自身の日常的な次元の話にしても、 "何をするか?" がとりあえず決まると、あとの "どうするか?" の段取りやプロセスはあっという間に時間が過ぎるほどに作業や事態は進展してゆく。
情けないのは、 "何をするか?" の決め手を欠き、そのレベルでうだうだと思い悩み躊躇している場合であろうか。自分はバカではないか、自分は存外老いてしまったのか、と静かに落ち込み、沈み込んでゆくのもそんな時である。
いや、いつもながらのことだが、何がどうというのではなくて "茫漠と" そう思うのである。
自身の日常的な次元の話にしても、 "何をするか?" がとりあえず決まると、あとの "どうするか?" の段取りやプロセスはあっという間に時間が過ぎるほどに作業や事態は進展してゆく。
情けないのは、 "何をするか?" の決め手を欠き、そのレベルでうだうだと思い悩み躊躇している場合であろうか。自分はバカではないか、自分は存外老いてしまったのか、と静かに落ち込み、沈み込んでゆくのもそんな時である。
"どうするか?" とは要するに "ハウトゥ( how to) " ということで、決して大変なことではないと言い切るつもりはないにしても、いわば "お釣りの時間" 、 "脳活動のお釣り部分" で片付きそうな気がしている。あるいは、 "力仕事" だと言ってもいい。
それに対して、 "何をするか?" と問うことこそは、 "腰をすえた脳活動" 、 "広い視野" と "鋭い直観力" 、そして "集中力" がなくしては発することができない代物ではなかろうか。
この難易度の相違は、 "何をするか?" と問うことには、 "意味" や "価値観" といったものが絡まずには済まないからかもしれない。
片や "どうするか?" という課題にとっての眼目は、 "因果関係" により多く関係していて、その範囲での推論をごり押しして行けば、まずまず何とかなったりしそうである。
端的な話が、 " 設問が与えられて" それを解くというパターンは、その設問の難易度にもよるわけだけれども、要するに "力仕事" なのだと言い切ってよさそうだ。
それに対して、 "設問自体を案出する" となったらこれは意外と梃子摺るのではなかろうか。安直な設問はバカにされそうだし、といって解けない、解不能な設問になってしまうとやはり笑い者にされよう。
いや別に "出題者" の苦労話をしようとしているのではない。すべからく、 "どうするか?" よりも "何をするか?" に腐心することの方が大変なのではないかと思うのである。
そして、この両者の違いという構図にはかなり本質的なテーマが潜んでいそうな気もしてくるわけだ。
たとえば、 "戦略" と "戦術" という対比を想定してみるならば、これらは単に広げる風呂敷の大きさだけを言っているのではないはずである。 "戦術" とは、 "どうするか?" という "ハウトゥ( how to) " 問題により強く関わっており、片や "戦略" とは、 "何をするか?" という "対象や方向性の選択" が深く絡み、当然 "価値観" に染まり、 "発想のあり方" に迫らざるを得なくなるもののように思える。 "発想の転換" と呼ばれる方法と重ならざるを得なくなる、そうしたもののようだ。
なお、いくら "戦術" に長けていても "戦略" がなければ行き詰まる、と言われてきたはずだが、この事情から言うならば、 "何をするか?" というレベルでの腐心なくして "どうするか?" というレベルだけに拘泥していても、埒が明かないということにはならないだろうか。
こんな "メタ" 問題にうだうだと関わっているのは、現在の政治状況での "官僚主導から政治主導へ" という "どうするか?" 次元から "何をするか?" 次元への歴史的転換という事情が視野に入っているからだと言えば出来過ぎか...... (2009.10.11)
それに対して、 "何をするか?" と問うことこそは、 "腰をすえた脳活動" 、 "広い視野" と "鋭い直観力" 、そして "集中力" がなくしては発することができない代物ではなかろうか。
この難易度の相違は、 "何をするか?" と問うことには、 "意味" や "価値観" といったものが絡まずには済まないからかもしれない。
片や "どうするか?" という課題にとっての眼目は、 "因果関係" により多く関係していて、その範囲での推論をごり押しして行けば、まずまず何とかなったりしそうである。
端的な話が、 " 設問が与えられて" それを解くというパターンは、その設問の難易度にもよるわけだけれども、要するに "力仕事" なのだと言い切ってよさそうだ。
それに対して、 "設問自体を案出する" となったらこれは意外と梃子摺るのではなかろうか。安直な設問はバカにされそうだし、といって解けない、解不能な設問になってしまうとやはり笑い者にされよう。
いや別に "出題者" の苦労話をしようとしているのではない。すべからく、 "どうするか?" よりも "何をするか?" に腐心することの方が大変なのではないかと思うのである。
そして、この両者の違いという構図にはかなり本質的なテーマが潜んでいそうな気もしてくるわけだ。
たとえば、 "戦略" と "戦術" という対比を想定してみるならば、これらは単に広げる風呂敷の大きさだけを言っているのではないはずである。 "戦術" とは、 "どうするか?" という "ハウトゥ( how to) " 問題により強く関わっており、片や "戦略" とは、 "何をするか?" という "対象や方向性の選択" が深く絡み、当然 "価値観" に染まり、 "発想のあり方" に迫らざるを得なくなるもののように思える。 "発想の転換" と呼ばれる方法と重ならざるを得なくなる、そうしたもののようだ。
なお、いくら "戦術" に長けていても "戦略" がなければ行き詰まる、と言われてきたはずだが、この事情から言うならば、 "何をするか?" というレベルでの腐心なくして "どうするか?" というレベルだけに拘泥していても、埒が明かないということにはならないだろうか。
こんな "メタ" 問題にうだうだと関わっているのは、現在の政治状況での "官僚主導から政治主導へ" という "どうするか?" 次元から "何をするか?" 次元への歴史的転換という事情が視野に入っているからだと言えば出来過ぎか...... (2009.10.11)
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