最近は、台所に立つことが少なくなくなった。家内が高齢の母親をケアするために実家に出向き留守が多くなったこともある。また、遅ればせながらの節約志向という世知辛い動機もある。が、まあ、決して悪いことではないと感じている。
最初は、自分が使った食器類を洗うことから始まった。そしてご多分に漏れず、厄介感が拭い切れないでいた。が、いかに動作にムダなく手際良くこなせるかという観点を導入してみると、セイノー! でスタートして、我ながら感心するほどの短時間で済ませるようになった。
昨今では、食器洗いのみならず、自分で口にするものを料理することも厭わなくなったものだ。といっても大したことをするわけではない。残り物の食材でチャーハンを拵えたり、味噌汁が好きなものだから、適当な野菜を見繕ってあっと言う間に作ったりする。
最初は、自分が使った食器類を洗うことから始まった。そしてご多分に漏れず、厄介感が拭い切れないでいた。が、いかに動作にムダなく手際良くこなせるかという観点を導入してみると、セイノー! でスタートして、我ながら感心するほどの短時間で済ませるようになった。
昨今では、食器洗いのみならず、自分で口にするものを料理することも厭わなくなったものだ。といっても大したことをするわけではない。残り物の食材でチャーハンを拵えたり、味噌汁が好きなものだから、適当な野菜を見繕ってあっと言う間に作ったりする。
で、何を書こうとしているのかと言うと、今日、昼食用に拵えた "かぼちゃ" の味噌汁のことなのである。野菜炒めを作りながら、ふと、野菜類が置いてある一角に眼をやると、そこに "ドデーン" と納まる風情で "かぼちゃ" がいらっしゃった。いやに、存在感を誇示し、誇示している割りにはマヌケな感じというか、センスも何もあったものではない形態をしていた(と感じた)。
よしよし、それじゃぁ、味噌汁の実にでもしてやっか......、という気になったものである。そこで、一方で、鍋で湯を沸かしながら、並行的にそいつを味噌汁の実になるよう "解体" することにした。
たとえ "解体" したところで、柔らかくなるにはかなりの時間がかかりそうだったため、刻んだものを電子レンジで処理しようと目論んだりしてはいた。
が、いざそいつを両手で抱えて、まな板の上に運ぶと、その居直ったような存在感の大きさに幾分 "たじろぐ" 雰囲気にさせられてしまった。
えっ、こいつをどうやって切り捌く? このスマートな菜切り包丁では手強そうではないか。やはり "出刃包丁" の出番か? しかし、仮に "出刃包丁" だとしても、この一見 "瀬戸物" もどきの無骨なやつを "解体" するのは "要注意" だなぁ。こんな事で指をザックリだなんてことになったら洒落にもならんぞ......。
まあ、結局、 "出刃包丁" で慎重に "解体" し、ほどなくそいつを味噌汁の実にふさわしい賽の目状に処理し、電子レンジに突っ込むことで事無きを得た。
ただ、その作業をしながら自分は別の事を考えたりしていた。
まな板の上にその "瀬戸物" もどきの硬い塊を載せ、右手に出刃包丁を持った時、ふいに "切り口" という言葉が思い浮かんだのである。これはまったく当該の料理作業とは関係のないことに違いない。
良く言われる、「何事も対象への迫り方では、 "切り口" が決め手......」というあれである。この考えには日頃、確かに納得していた。どんな対象を描いたり、撮ったり、解説したりするにせよ、 "切り口" の良し悪しで雲泥の差が生まれて来る......、という教訓めいたあの言い方のことである。
自分のイメージでは、まな板の上に置かれた、 "解体" に手強わそうな "かぼちゃ" は、 "かぼちゃ" でありながら "かぼちゃ" ではなくて、何あろう昨今わけがわからなくなった "世界の現状" のような気配がしたのである。
人々から "諒解(了解)されることを拒む" かのように頑なとなった現代という時代の "世界" がドデーンと横たわっているかのように......。
そして、そいつは、
「さぁーて、どう切り拓くね? すべては "切り口" が決め手なんですぜ......」
と開き直ったりしている......。
ま、白昼夢の余談はともかくとして、賽の目状に分解されて電子レンジで処理された "元かぼちゃ" は、その後間もなく出しの効いた味噌汁の実となって、何の変哲もなく空きっ腹に納まったことに変わりはなかった...... (2009.10.18)
よしよし、それじゃぁ、味噌汁の実にでもしてやっか......、という気になったものである。そこで、一方で、鍋で湯を沸かしながら、並行的にそいつを味噌汁の実になるよう "解体" することにした。
たとえ "解体" したところで、柔らかくなるにはかなりの時間がかかりそうだったため、刻んだものを電子レンジで処理しようと目論んだりしてはいた。
が、いざそいつを両手で抱えて、まな板の上に運ぶと、その居直ったような存在感の大きさに幾分 "たじろぐ" 雰囲気にさせられてしまった。
えっ、こいつをどうやって切り捌く? このスマートな菜切り包丁では手強そうではないか。やはり "出刃包丁" の出番か? しかし、仮に "出刃包丁" だとしても、この一見 "瀬戸物" もどきの無骨なやつを "解体" するのは "要注意" だなぁ。こんな事で指をザックリだなんてことになったら洒落にもならんぞ......。
まあ、結局、 "出刃包丁" で慎重に "解体" し、ほどなくそいつを味噌汁の実にふさわしい賽の目状に処理し、電子レンジに突っ込むことで事無きを得た。
ただ、その作業をしながら自分は別の事を考えたりしていた。
まな板の上にその "瀬戸物" もどきの硬い塊を載せ、右手に出刃包丁を持った時、ふいに "切り口" という言葉が思い浮かんだのである。これはまったく当該の料理作業とは関係のないことに違いない。
良く言われる、「何事も対象への迫り方では、 "切り口" が決め手......」というあれである。この考えには日頃、確かに納得していた。どんな対象を描いたり、撮ったり、解説したりするにせよ、 "切り口" の良し悪しで雲泥の差が生まれて来る......、という教訓めいたあの言い方のことである。
自分のイメージでは、まな板の上に置かれた、 "解体" に手強わそうな "かぼちゃ" は、 "かぼちゃ" でありながら "かぼちゃ" ではなくて、何あろう昨今わけがわからなくなった "世界の現状" のような気配がしたのである。
人々から "諒解(了解)されることを拒む" かのように頑なとなった現代という時代の "世界" がドデーンと横たわっているかのように......。
そして、そいつは、
「さぁーて、どう切り拓くね? すべては "切り口" が決め手なんですぜ......」
と開き直ったりしている......。
ま、白昼夢の余談はともかくとして、賽の目状に分解されて電子レンジで処理された "元かぼちゃ" は、その後間もなく出しの効いた味噌汁の実となって、何の変哲もなく空きっ腹に納まったことに変わりはなかった...... (2009.10.18)
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