時々、日常生活というルーチンからドロップし、いわば "正気に返る" と突然のごとく "寡黙" となってしまう。未だにそんな青臭さを引き摺っている。
そして、そんな場合には、こうした日誌、文章をしたためるということがとてつもなく "難題" に思えてしまうわけである。
いかに、日頃の自分は "正気" の自身から "幽体離脱(?)" でもしていて、戯言(ざれごと)三昧で流しているか......、と気づかされざるを得なかったりする。
これまでも幾度となくこんなシチュエーションにぶつかっている。そして、そんな時には必ず、<こうして「日誌」もどきを「公開」のかたちで書くということの意味は何であろうか。>なんぞとアホな自問をしている。
以下は、<「意味」を問えない人間たちを生み出す現代の病理!......>と題して書いていた、過去のそんな一例である。
そして、そんな場合には、こうした日誌、文章をしたためるということがとてつもなく "難題" に思えてしまうわけである。
いかに、日頃の自分は "正気" の自身から "幽体離脱(?)" でもしていて、戯言(ざれごと)三昧で流しているか......、と気づかされざるを得なかったりする。
これまでも幾度となくこんなシチュエーションにぶつかっている。そして、そんな時には必ず、<こうして「日誌」もどきを「公開」のかたちで書くということの意味は何であろうか。>なんぞとアホな自問をしている。
以下は、<「意味」を問えない人間たちを生み出す現代の病理!......>と題して書いていた、過去のそんな一例である。
<......どうせ実のある特殊性なんぞを持つわけもないのはわかっていても、自分という存在の特殊性と、世間一般の一般性とを絡み合わせるという、そんな作業こそが書くということではないのかと推定している。
できるだけ、自身でも言葉にしかねるような曖昧模糊とした自身の内面や記憶その他を、そのままにしておくのではなく、言葉という他者との媒体を駆使して表現してみること、他者にわかってもらえるべく試行錯誤すること、こうしたことが現代のような、情報が言葉に取って代わったかのような環境にあっては必須だと思えてならない。
唐突な言い方をするならば、情報によって広く世界のことを知ることができることと、たとえ狭く限られた世界の一部ではあっても、その「意味」、自分にとっての「意味」が味わえることとのどっちを人は選ぶものであろうか。もちろんわたしなら、迷うことなく後者を選びたい。
ところが、現代では、情報とその「意味」とは「バンドル(同梱)」となっている気配が濃厚であり、すべて「個人の外」からしかそれらは訪れることがないかのように見なされているかのようだ。それを許しているのは、個人における意味付け主体としての側面の見る影もない衰弱と、現代社会の情報機構の圧倒的凌駕という不健全な関係なのだろうと思っている。......>( 当日誌 2004.11.22 より)
現時点でもこの辺の事情は変わってはいないかと思える。
"問題の所在" については、薄々と感づいていないわけではない。たぶん、一般化して言うならば、上記の<(1)個人における意味付け主体としての側面の見る影もない衰弱と、(2)現代社会の情報機構の圧倒的凌駕という(3)不健全な関係>ということなのであろう。
翻って自身に照らしても、その<不健全な関係>が十分に当てはまってしまいそうな気がしている。
残念ながら、<(1)>の部分は、ますます "衰弱" の一途をたどり、 "浮遊" するかのごとき観があり、片や<(2)>の部分は、 "難攻不落" とさえ言えそうなほどに "システム度" を強めてしまい、<個人における意味付け主体>の機能を浸食し尽くしつつ、いわば "完全代行" しているかのような雰囲気さえある。
もはや、 "洗脳" というような古い言葉に込められた胡散臭(うさんくさ)さなぞは "脱臭" され切って、フルーティな香りに置き換えられ、別段何の不思議もなく日々実施されているかのような気配だ......。
こうした<不健全な関係>が、実は "おかしい" ことを誰もが気づいてはいるのだろう。たとえ、自覚的にではなくとも、 "鮮やかな生きがい" からまるで遮断されているかのような感触において......。
しかし、世界の何もかもが "揺らぐ" ( cf."社会の「底が抜けて」いる" /宮台真司『日本の難点』)時代環境にあっては、<(2)>の部分は拒絶されるどころか、むしろ "しがみつく" ( cf. 香山 リカ『しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール (幻冬舎新書)』)対象や、 "藁(わら)" にさえなっているのかもしれない。
しかも、"社会の「底が抜けて」いる" ような時代にあっては、<意味付け主体>としての個人を日々バックアップする環境(=生活世界、空間)が "空洞化" しているときている。二階に上げられて梯子をはずされる、どころではなく、 "踏みしめる足場" そのものが奪われているかのよう......。
そんなことが、誰もが "おかしい" ことを気づいていたとしても、見て見ぬ振りをして "正気に返る" ことを遠ざけている理由であるのかもしれない。
これらの重っ苦しい問題は、新政権に期待することとはかなり距離のある問題なのであろうが、こうした時代的問題を同時に視野に入れておく必要はありそうな気がしている...... (2009.10.30)
できるだけ、自身でも言葉にしかねるような曖昧模糊とした自身の内面や記憶その他を、そのままにしておくのではなく、言葉という他者との媒体を駆使して表現してみること、他者にわかってもらえるべく試行錯誤すること、こうしたことが現代のような、情報が言葉に取って代わったかのような環境にあっては必須だと思えてならない。
唐突な言い方をするならば、情報によって広く世界のことを知ることができることと、たとえ狭く限られた世界の一部ではあっても、その「意味」、自分にとっての「意味」が味わえることとのどっちを人は選ぶものであろうか。もちろんわたしなら、迷うことなく後者を選びたい。
ところが、現代では、情報とその「意味」とは「バンドル(同梱)」となっている気配が濃厚であり、すべて「個人の外」からしかそれらは訪れることがないかのように見なされているかのようだ。それを許しているのは、個人における意味付け主体としての側面の見る影もない衰弱と、現代社会の情報機構の圧倒的凌駕という不健全な関係なのだろうと思っている。......>( 当日誌 2004.11.22 より)
現時点でもこの辺の事情は変わってはいないかと思える。
"問題の所在" については、薄々と感づいていないわけではない。たぶん、一般化して言うならば、上記の<(1)個人における意味付け主体としての側面の見る影もない衰弱と、(2)現代社会の情報機構の圧倒的凌駕という(3)不健全な関係>ということなのであろう。
翻って自身に照らしても、その<不健全な関係>が十分に当てはまってしまいそうな気がしている。
残念ながら、<(1)>の部分は、ますます "衰弱" の一途をたどり、 "浮遊" するかのごとき観があり、片や<(2)>の部分は、 "難攻不落" とさえ言えそうなほどに "システム度" を強めてしまい、<個人における意味付け主体>の機能を浸食し尽くしつつ、いわば "完全代行" しているかのような雰囲気さえある。
もはや、 "洗脳" というような古い言葉に込められた胡散臭(うさんくさ)さなぞは "脱臭" され切って、フルーティな香りに置き換えられ、別段何の不思議もなく日々実施されているかのような気配だ......。
こうした<不健全な関係>が、実は "おかしい" ことを誰もが気づいてはいるのだろう。たとえ、自覚的にではなくとも、 "鮮やかな生きがい" からまるで遮断されているかのような感触において......。
しかし、世界の何もかもが "揺らぐ" ( cf."社会の「底が抜けて」いる" /宮台真司『日本の難点』)時代環境にあっては、<(2)>の部分は拒絶されるどころか、むしろ "しがみつく" ( cf. 香山 リカ『しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール (幻冬舎新書)』)対象や、 "藁(わら)" にさえなっているのかもしれない。
しかも、"社会の「底が抜けて」いる" ような時代にあっては、<意味付け主体>としての個人を日々バックアップする環境(=生活世界、空間)が "空洞化" しているときている。二階に上げられて梯子をはずされる、どころではなく、 "踏みしめる足場" そのものが奪われているかのよう......。
そんなことが、誰もが "おかしい" ことを気づいていたとしても、見て見ぬ振りをして "正気に返る" ことを遠ざけている理由であるのかもしれない。
これらの重っ苦しい問題は、新政権に期待することとはかなり距離のある問題なのであろうが、こうした時代的問題を同時に視野に入れておく必要はありそうな気がしている...... (2009.10.30)
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