"ひとのせいにする" というこの時代で最も "メジャー" で、流行ってもいる振る舞い方がが気になる。
漢字で記すと "他人の所為にする" となるもののようだ。 "所為(しょい。したことの意。)" が変化して "せい" となったと言われている。また "ひと" と言っても、もちろん「函館の女(ひと)」のような「女」でないことは誰でもわかる。
中には、 "ひと(女)のせい" だと言ってはばからないほどに女性から手痛い仕打ちを食らった御仁がいるのかもしれないが、呆れるだけだろう。それとて、いわば "身から出た錆" 、 "自業自得" に落ち着きそうで、要するに、自身の愚かさを棚上げにして、諸悪の根源をもっぱら "他人" に帰着させようとするその "せこさ" を覆い切れないだろう。
それにしても、昨今は "ひとのせいにする" 面々が多い。もっとも、その "面々" の中には、自分自身をもエントリーせざるを得ないとは承知している......。
ちなみに、ストーカーまがいにある人の一日の振る舞いを観察したとしたら、何十回となく "ひとのせいにする" 言動、行動を目撃することになりそうだ。
横断歩道の前に立っているんだから停まればいいじゃないか、クルマは! と "ひと=他人" のせいにして、自分はというと意思表示のボタンを押し忘れていたりする。
バスに並んだら並んだで、何だってこんなに混むんだ、みんな(他人)ギリギリまで寝てて飛び出してくるからラッシュになるんだ、と言いながら自分を棚上げしていたりする。
駅で改札を入ろうとしてカードをあてがうと、改札ドアが開かない。何だってこんな時刻に故障するんだ! と駅員に噛み付いたりすると、お客さん、カードが切れてますので更新してください、と咎められたり......。
まあ、こんな具合に、それこそ "自己責任" に帰着するに違いないトラブルのその矛先をただただ "ひと=他人" 様に向けようとする。それもほとんどが反射的ともいえるスピードでのリアクションだったりする。
漢字で記すと "他人の所為にする" となるもののようだ。 "所為(しょい。したことの意。)" が変化して "せい" となったと言われている。また "ひと" と言っても、もちろん「函館の女(ひと)」のような「女」でないことは誰でもわかる。
中には、 "ひと(女)のせい" だと言ってはばからないほどに女性から手痛い仕打ちを食らった御仁がいるのかもしれないが、呆れるだけだろう。それとて、いわば "身から出た錆" 、 "自業自得" に落ち着きそうで、要するに、自身の愚かさを棚上げにして、諸悪の根源をもっぱら "他人" に帰着させようとするその "せこさ" を覆い切れないだろう。
それにしても、昨今は "ひとのせいにする" 面々が多い。もっとも、その "面々" の中には、自分自身をもエントリーせざるを得ないとは承知している......。
ちなみに、ストーカーまがいにある人の一日の振る舞いを観察したとしたら、何十回となく "ひとのせいにする" 言動、行動を目撃することになりそうだ。
横断歩道の前に立っているんだから停まればいいじゃないか、クルマは! と "ひと=他人" のせいにして、自分はというと意思表示のボタンを押し忘れていたりする。
バスに並んだら並んだで、何だってこんなに混むんだ、みんな(他人)ギリギリまで寝てて飛び出してくるからラッシュになるんだ、と言いながら自分を棚上げしていたりする。
駅で改札を入ろうとしてカードをあてがうと、改札ドアが開かない。何だってこんな時刻に故障するんだ! と駅員に噛み付いたりすると、お客さん、カードが切れてますので更新してください、と咎められたり......。
まあ、こんな具合に、それこそ "自己責任" に帰着するに違いないトラブルのその矛先をただただ "ひと=他人" 様に向けようとする。それもほとんどが反射的ともいえるスピードでのリアクションだったりする。
米国は "訴訟社会" だから、クルマで事故っても決して自分側から謝るな、とは聞いたことがある。しかし、この日本でも今やそうなろうとしているようだし、水面下での日常生活ではその下地たる "ひとのせいにする" 風潮がもはや "臨界" 状況に達しようとしているのではなかろうか。
確かに、激しく非難されたり批判されたりしてもやむを得ないかのような生活環境(公的環境)が横たわっていたりして、その原因は自分側にはない、と憤りたくなるような文脈は少なくない。そんな状況下で、自分以外の "外的環境" や "他人" を責めることが、まともな権利意識をショートして、いつしか習性として身についてしまったのであろうか......。
また、爛熟する消費環境の中で、とにかく "お客様第一!" とでもいうような風潮に悪乗りしてしまい、 "勘違い" 、 "吐き違い" の感覚までを助長させてしまったのであろうか......。
ところで、こうした "ひとのせいにする" という、もはや立ち上がり切ってしまった現在顕著な風潮を考える時、注意を向けてみたい点が二つある。
ひとつは何あろう、このスタンスでは人はいつまで経っても幸せにはなれないのではないか、という至極情けない点なのである。今日はこの点には深入りしないが、きっと、イメージ的には、 "喉の渇きを海水でもって充たそうとする" かのような流れになるというような気配を感じている。
もうひとつの点は、 "ひとのせいにする" の "ひと" という言葉自体を曖昧にしてきた伝統文化みたいなものが気になるのである。
そもそも、この "ひと=人=他人" といういわば "三位一体" 型表現は一体どういうことなのだろうか? と......。
これも、手順を踏んで考察すれば合点がゆくことになるのだろうとは想定しているが、やはり日本の伝統文化の特徴以外ではなかろう。
ちなみに、 "ひと=人=他人" という言葉と意味で構成されることわざは多数ある。
「人の過ち、我が幸せ」「人の痛いのは三年でも辛抱する」「人の一寸、我が一尺」「人の苦楽は壁一重」「人の事は我の事」「人の褌で相撲を取る」「人を謗るは鴨の味」「人を使うは使わるる」「人を見たら泥棒と思え」「人を以って鑑と為す」「人のふり見て我がふり直せ」etc.
ひょっとしたら、 "他人" を額面どおり "他人" として受け止め、と同時にその "他人" と向き合う "自分" という存在についての自覚を、 "両者ともに" 曖昧としてきてしまったこの日本での文化的ヒストリーが、しぶとく横たわっているのかもしれない。両者の "境" が曖昧とできてしまうからこそ、容易に事の根拠(所為=せい)を "横滑り" させてしまえる心理が成り立つのかもしれないからか......、と。
危(あや)める相手は "誰でも良かった......" というような犯罪が頻発する事態なぞは、こう考えると読める気もする。
いずれにしても、上記の一連のことわざもさることながら、ちょいと手厳しいニュアンスである「人を怨むより身を怨め」や「人を呪わば穴二つ」ということわざなんぞをこそ、つくづく反芻してみなければならないのかも...... (2009.11.02)
確かに、激しく非難されたり批判されたりしてもやむを得ないかのような生活環境(公的環境)が横たわっていたりして、その原因は自分側にはない、と憤りたくなるような文脈は少なくない。そんな状況下で、自分以外の "外的環境" や "他人" を責めることが、まともな権利意識をショートして、いつしか習性として身についてしまったのであろうか......。
また、爛熟する消費環境の中で、とにかく "お客様第一!" とでもいうような風潮に悪乗りしてしまい、 "勘違い" 、 "吐き違い" の感覚までを助長させてしまったのであろうか......。
ところで、こうした "ひとのせいにする" という、もはや立ち上がり切ってしまった現在顕著な風潮を考える時、注意を向けてみたい点が二つある。
ひとつは何あろう、このスタンスでは人はいつまで経っても幸せにはなれないのではないか、という至極情けない点なのである。今日はこの点には深入りしないが、きっと、イメージ的には、 "喉の渇きを海水でもって充たそうとする" かのような流れになるというような気配を感じている。
もうひとつの点は、 "ひとのせいにする" の "ひと" という言葉自体を曖昧にしてきた伝統文化みたいなものが気になるのである。
そもそも、この "ひと=人=他人" といういわば "三位一体" 型表現は一体どういうことなのだろうか? と......。
これも、手順を踏んで考察すれば合点がゆくことになるのだろうとは想定しているが、やはり日本の伝統文化の特徴以外ではなかろう。
ちなみに、 "ひと=人=他人" という言葉と意味で構成されることわざは多数ある。
「人の過ち、我が幸せ」「人の痛いのは三年でも辛抱する」「人の一寸、我が一尺」「人の苦楽は壁一重」「人の事は我の事」「人の褌で相撲を取る」「人を謗るは鴨の味」「人を使うは使わるる」「人を見たら泥棒と思え」「人を以って鑑と為す」「人のふり見て我がふり直せ」etc.
ひょっとしたら、 "他人" を額面どおり "他人" として受け止め、と同時にその "他人" と向き合う "自分" という存在についての自覚を、 "両者ともに" 曖昧としてきてしまったこの日本での文化的ヒストリーが、しぶとく横たわっているのかもしれない。両者の "境" が曖昧とできてしまうからこそ、容易に事の根拠(所為=せい)を "横滑り" させてしまえる心理が成り立つのかもしれないからか......、と。
危(あや)める相手は "誰でも良かった......" というような犯罪が頻発する事態なぞは、こう考えると読める気もする。
いずれにしても、上記の一連のことわざもさることながら、ちょいと手厳しいニュアンスである「人を怨むより身を怨め」や「人を呪わば穴二つ」ということわざなんぞをこそ、つくづく反芻してみなければならないのかも...... (2009.11.02)
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