昨日の話題の続きになる。昨日は、<わかりあえない時代の......>という言い回しが、この時代環境で生きる人々の心の奥底で響く、まるで "通奏低音" のようなニュアンスを持っていそうだと書いた。誰もが、口には出さなくとも大なり小なり感じ続けている、そんな重苦しい気分ではないか......、と。
そんな状況だからであろうか、 "わかりあえる" 人間関係が、 "青い鳥" のように追い求められもする。が、もともと "青い鳥" のようなものであるがゆえに、その先には苦い挫折感が待ち受けていたりもする。
いや、 "青い鳥" だと決めつけるのは問題もありそうだが、それほどに困難さが潜んでいそうだということである。
現代という時代は、 "価値観" が多元化し、錯綜し、いわば "神々の争い" 状態となっていそうであり、また個々人の趣味嗜好も炸裂したかのように多岐に渡っている。しかも、生活環境自体が止まることのない "個人化" 傾向を推し進め、生活スタイルもその傾向に大半が染め上げられている。
かつての家族集団が保持していたような "共通の生活体験" が、家族の中でも希薄になっているのが現代の否定できない傾向のはずであろう。実はその "共通の生活体験" こそが、かつてのわれわれがお互いに "わかりあう" ことに大いに貢献していた事実だったはずである。
そんな状況だからであろうか、 "わかりあえる" 人間関係が、 "青い鳥" のように追い求められもする。が、もともと "青い鳥" のようなものであるがゆえに、その先には苦い挫折感が待ち受けていたりもする。
いや、 "青い鳥" だと決めつけるのは問題もありそうだが、それほどに困難さが潜んでいそうだということである。
現代という時代は、 "価値観" が多元化し、錯綜し、いわば "神々の争い" 状態となっていそうであり、また個々人の趣味嗜好も炸裂したかのように多岐に渡っている。しかも、生活環境自体が止まることのない "個人化" 傾向を推し進め、生活スタイルもその傾向に大半が染め上げられている。
かつての家族集団が保持していたような "共通の生活体験" が、家族の中でも希薄になっているのが現代の否定できない傾向のはずであろう。実はその "共通の生活体験" こそが、かつてのわれわれがお互いに "わかりあう" ことに大いに貢献していた事実だったはずである。
この辺の事情に眼を向けた時、やはり、 "わかりあえる" 人間関係は "青い鳥" になりつつあるという表現に傾くのである。
しかも、そう考える地点から踏み出す方が、むしろ無難ではないかとさえ思える。間違っても、 "わかりあえる" 人間関係が一般的に遍在(どこにでもあること)していて、自分の周囲にだけ "わかりあえない" 人間関係がつきまとっている、なんぞとは思うべきではなかろう。ただただ、視野閉塞の人たちを自虐的に苦しめるだけだからだ。
こう書くと悲観主義的に響きそうだが、そうではなくて、 "わかりあえる" 人間関係がまるで "既製品や吊るし" のように在ると思い込み、その上で、怠惰にも自身の無為自然な振る舞いをそのままにするというのでは、とてつもなくマズイ時代環境になっているのだ、と思えてならないわけだ。
"わかりあえる" 人間関係の "既製品や吊るし" はとっくに過去のもの、郷愁や観念の対象と化しているのであり、言ってみれば、 "Do it yourself !" で、自らの工夫と努力とで形成してゆくしかない、と言うべきなのであろう。
いや、こんなわかり切ったことをくどくどと言っているのは自分だけなのかもしれないが......。
ということで、 "わかりあえる" 人間関係を "Do it yourself !" で形成しようとする際に着目されるテーマのひとつが、 "対話" だということになりそうだ。
"わかりあえる" 人間関係 イコール "対話" だと見なすほどに楽観的には考えられないにしても、この話題に関わっていくと現代のいろいろな問題が照らし出されて行きそうな気がしている......(まだ続きそう?) (2009.11.18)
しかも、そう考える地点から踏み出す方が、むしろ無難ではないかとさえ思える。間違っても、 "わかりあえる" 人間関係が一般的に遍在(どこにでもあること)していて、自分の周囲にだけ "わかりあえない" 人間関係がつきまとっている、なんぞとは思うべきではなかろう。ただただ、視野閉塞の人たちを自虐的に苦しめるだけだからだ。
こう書くと悲観主義的に響きそうだが、そうではなくて、 "わかりあえる" 人間関係がまるで "既製品や吊るし" のように在ると思い込み、その上で、怠惰にも自身の無為自然な振る舞いをそのままにするというのでは、とてつもなくマズイ時代環境になっているのだ、と思えてならないわけだ。
"わかりあえる" 人間関係の "既製品や吊るし" はとっくに過去のもの、郷愁や観念の対象と化しているのであり、言ってみれば、 "Do it yourself !" で、自らの工夫と努力とで形成してゆくしかない、と言うべきなのであろう。
いや、こんなわかり切ったことをくどくどと言っているのは自分だけなのかもしれないが......。
ということで、 "わかりあえる" 人間関係を "Do it yourself !" で形成しようとする際に着目されるテーマのひとつが、 "対話" だということになりそうだ。
"わかりあえる" 人間関係 イコール "対話" だと見なすほどに楽観的には考えられないにしても、この話題に関わっていくと現代のいろいろな問題が照らし出されて行きそうな気がしている......(まだ続きそう?) (2009.11.18)
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