"対話" について思いをめぐらせると、どうしても "価値観" の相違という事態に行き当たらざるを得ないのではなかろうか。
ちなみに、 "対話" というテーマを視界に入れる人たちの多くは、やはり "わかりあえる" 人間関係をどうにかして作りたいと望む人たちなのであろう。ただ、 "わかりあえる" 人間関係を望む少なからぬ人たちが知らず知らずのうちに思い込んでしまっている誤算は、 "価値観が同じにならなければわかりあえない" という点であるのかもしれない。本当にそんなものなのだろうか? いや、別な表現をするならば、 "わかりあえる" 人間関係とは、 "価値観が等しい" ことを指すのだろうか? "価値観が等しい" という条件が揃わなければ、 "わかりあえる" 人間関係は成立しないのだろうか?
では、相手側が自分側の "価値観" と等しくなったかのような状態を作り出せば、 "わかりあえる" 人間関係が成立したと思えるのだろうか? "ビミョー" な問題だ。
この問題に進む前に、 "対話" の "リアリズム" の中には、現実世界では当たり前の事態である "価値観" の相違を、巧みに、いわば "荒業" で乗り越えようとするケースがあることに眼を向けたい。 "対話技法" とか "ディベート" とかを思い浮かべるとわかりやすい。
たぶんそこでは、 "わかりあえる" 人間関係という一般的に想定されるイメージは "置き去り(?)" にされてしまいがちだ。
にもかかわらず、そうした "対話" の "リアリズム" の側面をも見つめておかないと、 "わかりあえる" 人間関係は文字通り "青い鳥" になりかねないのかもしれぬ。
ちなみに、 "対話" というテーマを視界に入れる人たちの多くは、やはり "わかりあえる" 人間関係をどうにかして作りたいと望む人たちなのであろう。ただ、 "わかりあえる" 人間関係を望む少なからぬ人たちが知らず知らずのうちに思い込んでしまっている誤算は、 "価値観が同じにならなければわかりあえない" という点であるのかもしれない。本当にそんなものなのだろうか? いや、別な表現をするならば、 "わかりあえる" 人間関係とは、 "価値観が等しい" ことを指すのだろうか? "価値観が等しい" という条件が揃わなければ、 "わかりあえる" 人間関係は成立しないのだろうか?
では、相手側が自分側の "価値観" と等しくなったかのような状態を作り出せば、 "わかりあえる" 人間関係が成立したと思えるのだろうか? "ビミョー" な問題だ。
この問題に進む前に、 "対話" の "リアリズム" の中には、現実世界では当たり前の事態である "価値観" の相違を、巧みに、いわば "荒業" で乗り越えようとするケースがあることに眼を向けたい。 "対話技法" とか "ディベート" とかを思い浮かべるとわかりやすい。
たぶんそこでは、 "わかりあえる" 人間関係という一般的に想定されるイメージは "置き去り(?)" にされてしまいがちだ。
にもかかわらず、そうした "対話" の "リアリズム" の側面をも見つめておかないと、 "わかりあえる" 人間関係は文字通り "青い鳥" になりかねないのかもしれぬ。
そこで、参照したいのが、一昨日に書き始めた<「悪意の対話者」>(『わかりあえない時代の「対話力」入門/悪意の対話者に対抗するには』 北川達夫・日本教育大学院大学客員教授/週刊東洋経済 [11月21日号] )というテーマなのである。
かいつまんで引用、紹介すると以下のようになる。
< 対話とは「戦わないコミュニケーション」であると、本連載で繰り返し述べてきた。そのためか、対話というと「優しい」あるいは「穏健な」コミュニケーションという印象を抱く方が多い。だが、そのような印象を抱いたままでいると危険である。対話によって窮地に追い込まれることもあるからだ。
対話的な態度をとる「対話者」は理性的な感じがして、いかにも穏健な話し合いができそうな雰囲気を漂わせている。
......外見に惑わされてはいけない。対話の根底に価値観の対立があることを忘れてはならない。>
そうでないと、
<いつの間にか「悪意の対話者」の価値観にすっぽりとのみ込まれてしまう>という。
これを説明するために<世にも恐ろしい対話を描いた作品>として次の例が示される。
<「悪意の対話者」を描いた面白い小説がある。ジェームズ・クラベルの『23分間の奇跡』(青島幸男訳・集英社文庫)>
登場人物は<価値観は絶望的に対立>した<教師>と<生徒たち>であり、とある対立点をめぐって穏健な "対話" が行われるのだが、結局、教師は<明確な「悪意」をもって対話に臨んで......、ごくわずかな時間で生徒たちを完全に「洗脳」して>しまったのだ。
もちろん "対話" は穏健そのものであり、<生徒たちは自由に発言することが許されている。生徒たちの発言に対して、女性教師は絶対に「NO」とは言わない。その代わりに要所で質問をするのである。質問に答えられれば賞賛し、答えられなければ親切に教える。女性教師から何かを提案することもあるが、その提案を受け入れるかどうかを決めるのは生徒たちである>と説明されている。
で、筆者は、<なぜ生徒たちは丸め込まれたのか? それは自分たちの信念についてまじめに考えたことがなかったからだ。教え込まれたことを無批判に覚え込んでいただけだからだ>と指摘するに至る。そして、教訓的に強調するのは次の点なのである。
<自分の信念に対してつねに「なぜ?」を問いかけていないと、「悪意の対話者」に手玉に取られてしまうおそれがある。「悪意の対話者」が揺さぶりをかけてくるのは、そこのところだからだ>と。
そして筆者は読者に対して次のように提案する。
<まずは自分の信念について「なぜ?」を問う>こと。次に<自分の信念を根底から否定するような反論を考えること>(=<自分の信念を客観的に見つめること>)。そして最後に、<その反論にどこまで譲ることができるのかを考えること>(=<自分にとって「絶対に譲れないこと」を明確にする>こと)だと。
そして、次のように結んでいる。
<譲れるところは譲ってしまうのが対話の基本>であり、<対話の手法も知らず、信念を批判的に検証することもないまま「悪意の対話者」と対峙すれば、いとも簡単に取り込まれてしまうだろう>と。
"対話" というものは、 "わかりあえる" 人間関係を目指して努力されるものであることには間違いはなかろう。そうした "正攻法" の "対話" によってこそ、困難を極める "わかりあえる" という崇高な目標の実現が近づくはずである。
しかし、世の中には "価値観" の炸裂状況が横たわり、そこには「悪意の対話者」もいれば、 "わかりあう" こと以上に "他者たちの「洗脳」" に思いを寄せ、急ぐ者たちが蠢いている。
"わかりあえる" 人間関係を目指そうとする "対話" は、少なくとも、 "価値観" の相違は相違として、それを呑み込んで展開できる "タフネス" が不可欠なようである...... (2009.11.19)
かいつまんで引用、紹介すると以下のようになる。
< 対話とは「戦わないコミュニケーション」であると、本連載で繰り返し述べてきた。そのためか、対話というと「優しい」あるいは「穏健な」コミュニケーションという印象を抱く方が多い。だが、そのような印象を抱いたままでいると危険である。対話によって窮地に追い込まれることもあるからだ。
対話的な態度をとる「対話者」は理性的な感じがして、いかにも穏健な話し合いができそうな雰囲気を漂わせている。
......外見に惑わされてはいけない。対話の根底に価値観の対立があることを忘れてはならない。>
そうでないと、
<いつの間にか「悪意の対話者」の価値観にすっぽりとのみ込まれてしまう>という。
これを説明するために<世にも恐ろしい対話を描いた作品>として次の例が示される。
<「悪意の対話者」を描いた面白い小説がある。ジェームズ・クラベルの『23分間の奇跡』(青島幸男訳・集英社文庫)>
登場人物は<価値観は絶望的に対立>した<教師>と<生徒たち>であり、とある対立点をめぐって穏健な "対話" が行われるのだが、結局、教師は<明確な「悪意」をもって対話に臨んで......、ごくわずかな時間で生徒たちを完全に「洗脳」して>しまったのだ。
もちろん "対話" は穏健そのものであり、<生徒たちは自由に発言することが許されている。生徒たちの発言に対して、女性教師は絶対に「NO」とは言わない。その代わりに要所で質問をするのである。質問に答えられれば賞賛し、答えられなければ親切に教える。女性教師から何かを提案することもあるが、その提案を受け入れるかどうかを決めるのは生徒たちである>と説明されている。
で、筆者は、<なぜ生徒たちは丸め込まれたのか? それは自分たちの信念についてまじめに考えたことがなかったからだ。教え込まれたことを無批判に覚え込んでいただけだからだ>と指摘するに至る。そして、教訓的に強調するのは次の点なのである。
<自分の信念に対してつねに「なぜ?」を問いかけていないと、「悪意の対話者」に手玉に取られてしまうおそれがある。「悪意の対話者」が揺さぶりをかけてくるのは、そこのところだからだ>と。
そして筆者は読者に対して次のように提案する。
<まずは自分の信念について「なぜ?」を問う>こと。次に<自分の信念を根底から否定するような反論を考えること>(=<自分の信念を客観的に見つめること>)。そして最後に、<その反論にどこまで譲ることができるのかを考えること>(=<自分にとって「絶対に譲れないこと」を明確にする>こと)だと。
そして、次のように結んでいる。
<譲れるところは譲ってしまうのが対話の基本>であり、<対話の手法も知らず、信念を批判的に検証することもないまま「悪意の対話者」と対峙すれば、いとも簡単に取り込まれてしまうだろう>と。
"対話" というものは、 "わかりあえる" 人間関係を目指して努力されるものであることには間違いはなかろう。そうした "正攻法" の "対話" によってこそ、困難を極める "わかりあえる" という崇高な目標の実現が近づくはずである。
しかし、世の中には "価値観" の炸裂状況が横たわり、そこには「悪意の対話者」もいれば、 "わかりあう" こと以上に "他者たちの「洗脳」" に思いを寄せ、急ぐ者たちが蠢いている。
"わかりあえる" 人間関係を目指そうとする "対話" は、少なくとも、 "価値観" の相違は相違として、それを呑み込んで展開できる "タフネス" が不可欠なようである...... (2009.11.19)
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