やはり、日本社会は、グローバリズムのうねりを迎えるのにあまりにも準備不足、あるいは準備が杜撰だったのかもしれないなぁ、と痛感させられた思いだ。
「構造改革」のスローガンで問題にされたのは、もっぱら経済や財政の構造の問題であり、もちろんそれらも重要ではあったが、グローバリズムの世界を支える "人間の能力" についてはあまりにも無頓着過ぎたようだ。
"思考力" と "コミュニケーション力" が、グローバリズムの時代にあってどんなに重要なものかという認識が希薄であり過ぎたようだ。
"思考力" といえば "理数的知識" だと取り違えられ、また "コミュニケーション力" といえば "語学力" だと短絡された嫌いがあった。
"思考力" と "コミュニケーション力" とは、実は "コインの裏表" なのであって、 "切り離せない" もの、 "不可分" なものであるはずだろう。
この道理を、 "言語力" の問題なのだと言い切り、その不足が今大きな問題となっている、としたTV番組があった。
<「"言語力"が危ない~衰える 話す書く力~」/NHK『クローズアップ現代』NO.2822/2009.11.25>である。
「構造改革」のスローガンで問題にされたのは、もっぱら経済や財政の構造の問題であり、もちろんそれらも重要ではあったが、グローバリズムの世界を支える "人間の能力" についてはあまりにも無頓着過ぎたようだ。
"思考力" と "コミュニケーション力" が、グローバリズムの時代にあってどんなに重要なものかという認識が希薄であり過ぎたようだ。
"思考力" といえば "理数的知識" だと取り違えられ、また "コミュニケーション力" といえば "語学力" だと短絡された嫌いがあった。
"思考力" と "コミュニケーション力" とは、実は "コインの裏表" なのであって、 "切り離せない" もの、 "不可分" なものであるはずだろう。
この道理を、 "言語力" の問題なのだと言い切り、その不足が今大きな問題となっている、としたTV番組があった。
<「"言語力"が危ない~衰える 話す書く力~」/NHK『クローズアップ現代』NO.2822/2009.11.25>である。
しかも、問題を提起する "切り口" が、教育現場の問題に限定されることなく、何と、 "サッカーのワールドカップ日本代表" の訓練課題に "言語力の育成" が取り上げられているという、柔軟さと斬新さとで大いにを興味を駆り立てた。実際、現サッカー協会が来るべきワールドカップに向け、前回の惜敗を克服すべく、大きな課題の一つとして力を入れているという。
前回の敗因で指摘された点、 "試合中に仲間に自分の考えを伝える能力の不足" という点は決して軽視できるものではないというのだ。そして、それを克服するには "言語力" 教育に力を入れるべきだという。
そもそも、めまぐるしく状況が変わるサッカーは野球とは違い監督が指示できることは限られている、自分がどんなプレーをするべきなのか、仲間にどうして欲しいのか、選手には自分で考えそれを伝える力が何よりも必要とされるという。
したがって、言語力の強化によって、選手たちの意思疎通だけでなく "プレーの質" も上がる、と。プレーにはすべてに理由があるはずで、考えないで判断しないでプレーする習慣をつけてしまうことがいちばん怖い、のだと。
なるほどと思わせたが、振り返ると、あの "野村監督" のポリシーも、選手たちに "自身で考えて動く" ことを強調した "考える野球" だったはずだ。
野球でさえそうであるならば、サッカーであればなおのことだと言うべきなのだろう。
ところで、この文脈でもすでに、 "自分で考えそれを伝える力" というように、 "考える" こと(= "思考力" )と、 "伝える力" (= "コミュニケーション力" )とが "表裏一体" の力として把握されていること、そしてそれらをまとめて "言語力" と称されている点が注目されていいと思う。これらは決して別々に鍛えられるべきものではなく、連動して強化されるべきものだという点は、実に道理に叶っていそうだ。
番組のフリップでは「言語力」とは次のように説明されていた。
<●情報を整理する
●考えを組み立てる
●根拠を示して説明する>
前二者がより "思考力" に関わっているとも思えるが、ただし、それらは、三番目の項目を予想した時にこそリアリティと緊張感が増しパワーアップするというものであるはずだろう。つまり、 "考える" こと(= "思考力" )と、 "伝える力" (= "コミュニケーション力" )とは分離させることにはムリがありそうなのである。十分に伝えることができる者はすでに十分に考えている、と言えるのだろうし、十分に考えた者は十分に伝えることができ得るのだと思える。
こうした視点に立つ「言語力」不足という問題は、ひょっとしたら現在のこの日本の社会の悲惨な状況(起きなくていい残酷な犯罪から不幸な日常的家族関係に至るまで......)や最も恥ずかしい社会現象などを、クールに照らし出すのではないかというそんな予感がしている。
すでに書いてもきた< "わかりあえる" 人間関係、 "価値観" の相違、そして "対話" ......>(2009.11.19)という気掛かりにしても、この辺の問題と密接に関係していそうな気もしている。
日を改めて再び考えてみようかと思っている...... (2009.11.27)
前回の敗因で指摘された点、 "試合中に仲間に自分の考えを伝える能力の不足" という点は決して軽視できるものではないというのだ。そして、それを克服するには "言語力" 教育に力を入れるべきだという。
そもそも、めまぐるしく状況が変わるサッカーは野球とは違い監督が指示できることは限られている、自分がどんなプレーをするべきなのか、仲間にどうして欲しいのか、選手には自分で考えそれを伝える力が何よりも必要とされるという。
したがって、言語力の強化によって、選手たちの意思疎通だけでなく "プレーの質" も上がる、と。プレーにはすべてに理由があるはずで、考えないで判断しないでプレーする習慣をつけてしまうことがいちばん怖い、のだと。
なるほどと思わせたが、振り返ると、あの "野村監督" のポリシーも、選手たちに "自身で考えて動く" ことを強調した "考える野球" だったはずだ。
野球でさえそうであるならば、サッカーであればなおのことだと言うべきなのだろう。
ところで、この文脈でもすでに、 "自分で考えそれを伝える力" というように、 "考える" こと(= "思考力" )と、 "伝える力" (= "コミュニケーション力" )とが "表裏一体" の力として把握されていること、そしてそれらをまとめて "言語力" と称されている点が注目されていいと思う。これらは決して別々に鍛えられるべきものではなく、連動して強化されるべきものだという点は、実に道理に叶っていそうだ。
番組のフリップでは「言語力」とは次のように説明されていた。
<●情報を整理する
●考えを組み立てる
●根拠を示して説明する>
前二者がより "思考力" に関わっているとも思えるが、ただし、それらは、三番目の項目を予想した時にこそリアリティと緊張感が増しパワーアップするというものであるはずだろう。つまり、 "考える" こと(= "思考力" )と、 "伝える力" (= "コミュニケーション力" )とは分離させることにはムリがありそうなのである。十分に伝えることができる者はすでに十分に考えている、と言えるのだろうし、十分に考えた者は十分に伝えることができ得るのだと思える。
こうした視点に立つ「言語力」不足という問題は、ひょっとしたら現在のこの日本の社会の悲惨な状況(起きなくていい残酷な犯罪から不幸な日常的家族関係に至るまで......)や最も恥ずかしい社会現象などを、クールに照らし出すのではないかというそんな予感がしている。
すでに書いてもきた< "わかりあえる" 人間関係、 "価値観" の相違、そして "対話" ......>(2009.11.19)という気掛かりにしても、この辺の問題と密接に関係していそうな気もしている。
日を改めて再び考えてみようかと思っている...... (2009.11.27)
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