先日の新聞報道で<小中高生の暴力6万件 3年間で7割増>( asahi.com 2009.11.30 )という記事があり、気になっていた。
< 全国の小、中、高校が2008年度に確認した児童生徒の暴力行為は5万9618件と、前年度比で13%増、7千件近く増えて過去最多を更新したことが、30日に文部科学省が発表した「問題行動調査」でわかった。学校別では小学校で24%増、中学校で16%増と著しい。報告件数はこの3年間で1.75倍になった。......>(同上)
これまでにもこうした指摘はされてきたし、時代環境の好ましくないさまざまな点が挙げられもしてきた。
だが、最近の自分が意を強めるのは、先日来書いている "言語力" 低下の風潮(当日誌 2009.11.27、 2009.11.29 )とかなりの程度符合するのではないか、という思いなのである。
加えて、今日は、「天声人語」(朝日新聞朝刊)でもこの問題が取り上げられ、次のようなくだりが眼に入った。
< 全国の小、中、高校が2008年度に確認した児童生徒の暴力行為は5万9618件と、前年度比で13%増、7千件近く増えて過去最多を更新したことが、30日に文部科学省が発表した「問題行動調査」でわかった。学校別では小学校で24%増、中学校で16%増と著しい。報告件数はこの3年間で1.75倍になった。......>(同上)
これまでにもこうした指摘はされてきたし、時代環境の好ましくないさまざまな点が挙げられもしてきた。
だが、最近の自分が意を強めるのは、先日来書いている "言語力" 低下の風潮(当日誌 2009.11.27、 2009.11.29 )とかなりの程度符合するのではないか、という思いなのである。
加えて、今日は、「天声人語」(朝日新聞朝刊)でもこの問題が取り上げられ、次のようなくだりが眼に入った。
<......文科省の調査によれば、昨年度に確認された児童生徒の暴力行為は約6万件にのぼった。この3年で7割増え、過去最多だという。数字がすべてではないだろうが、ゆゆしき事態には違いない。......「怒りをうまく言葉にできないようだ」と、あるベテラン教諭は印象を語る。人材育成コンサルタントの辛淑玉(シン・スゴ)さんも同じ指摘をしていた。「怒る」とは言葉で感情を表すことをいう。しかし表現する言葉を失ったときに、人はキレる(『怒りの方法』岩波新書)▼キレやすい人は往々にして表現の力が乏しいそうだ。自らの感情を受け止めて、相手に伝える。そうした言語力の「堤防」が低いと、感情はたちまちあふれて洪水を起こしてしまう。......>
この問題については、いろいろと解説されたりもする。
今の子どもたちの親の世代が、学校での暴力事件が吹き荒れた時代に育ち......とか、最近の家庭での会話の言葉遣いがかなり荒れている実情、そして現在、家庭そのものが、子どもたちの心の安らぎ、心のエネルギー源になり得ていない実情などなど。
あるいは、過激な市場主義に浸された生活環境が、何でもすぐに手に入る環境を作り出し、そうしたことが、子どもたちの "堪え性" を損ない、 "我慢ができない" という傾向に拍車をかけているのではないか......、とか。
そうした状況のすべてが、わざわいとなっていることはムリなく了解できるところである。
だが、理由や原因を多々挙げることは間違いではないにしても、ではどうすればいいのかという点で、焦点をぼやかすだけになることも懸念される。要するに何が問題なのか、という疑問に端的に対応することも重要なことだと思えるのだ。
そうした場合に注意が向けられていいのが、 "言語力" 低下という、昨今顕著に浮かび上がっている社会問題ではないかと考えるのである。
再度、繰り返しておくならば、 "言語力" とは、語学力などに還元されてよいジャンルの問題ではなくて、<●情報を整理する、●考えを組み立てる、●根拠を示して説明する>という、 "思考力" と "コミュニケーション力" とで構成される基本的でかつ複合的な人間能力のことなのである。
これらの能力を、子どもたち(のみならず大人たちも)が培いにくい環境となっていること、これが大きな問題なのだと確信できる。
上記の引用文にも<キレやすい人は往々にして表現の力が乏しいそうだ。自らの感情を受け止めて、相手に伝える。そうした言語力の「堤防」が低いと、感情はたちまちあふれて洪水を起こしてしまう。>とあるが、その通りであろう。
さらに言えば、<乏しい>のは<表現の力>のみならず、 "思考すること" 自体に眼が向けられていないこと、過激に言うならば、四六時中 "思考停止状態!" になっている、あるいはそうなることを強いられている点が何よりも悲惨な問題点なのではないかと思わざるを得ない。
人間は、 "考える動物" ではあるものの、 "ちょっとした条件" が揃ってしまうと容易に "思考停止状態!" へと滑り込んでしまう "危うい" 存在でもあるような気がする。
悪意のある者たちは、虎視眈々とその "ちょっとした条件" を巧みに操ることを目論んだりもするのであり、そうした逆風環境があればなおのこと "考える動物" としての原点に立ち戻る必要性が増すはずではなかろうか、と...... (2009.12.02)
この問題については、いろいろと解説されたりもする。
今の子どもたちの親の世代が、学校での暴力事件が吹き荒れた時代に育ち......とか、最近の家庭での会話の言葉遣いがかなり荒れている実情、そして現在、家庭そのものが、子どもたちの心の安らぎ、心のエネルギー源になり得ていない実情などなど。
あるいは、過激な市場主義に浸された生活環境が、何でもすぐに手に入る環境を作り出し、そうしたことが、子どもたちの "堪え性" を損ない、 "我慢ができない" という傾向に拍車をかけているのではないか......、とか。
そうした状況のすべてが、わざわいとなっていることはムリなく了解できるところである。
だが、理由や原因を多々挙げることは間違いではないにしても、ではどうすればいいのかという点で、焦点をぼやかすだけになることも懸念される。要するに何が問題なのか、という疑問に端的に対応することも重要なことだと思えるのだ。
そうした場合に注意が向けられていいのが、 "言語力" 低下という、昨今顕著に浮かび上がっている社会問題ではないかと考えるのである。
再度、繰り返しておくならば、 "言語力" とは、語学力などに還元されてよいジャンルの問題ではなくて、<●情報を整理する、●考えを組み立てる、●根拠を示して説明する>という、 "思考力" と "コミュニケーション力" とで構成される基本的でかつ複合的な人間能力のことなのである。
これらの能力を、子どもたち(のみならず大人たちも)が培いにくい環境となっていること、これが大きな問題なのだと確信できる。
上記の引用文にも<キレやすい人は往々にして表現の力が乏しいそうだ。自らの感情を受け止めて、相手に伝える。そうした言語力の「堤防」が低いと、感情はたちまちあふれて洪水を起こしてしまう。>とあるが、その通りであろう。
さらに言えば、<乏しい>のは<表現の力>のみならず、 "思考すること" 自体に眼が向けられていないこと、過激に言うならば、四六時中 "思考停止状態!" になっている、あるいはそうなることを強いられている点が何よりも悲惨な問題点なのではないかと思わざるを得ない。
人間は、 "考える動物" ではあるものの、 "ちょっとした条件" が揃ってしまうと容易に "思考停止状態!" へと滑り込んでしまう "危うい" 存在でもあるような気がする。
悪意のある者たちは、虎視眈々とその "ちょっとした条件" を巧みに操ることを目論んだりもするのであり、そうした逆風環境があればなおのこと "考える動物" としての原点に立ち戻る必要性が増すはずではなかろうか、と...... (2009.12.02)
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