"考える" という行為に "言葉" は必須だ。さらに、その "言葉" を自在に駆使するためにボキャブラリー(語彙)も豊富であった方が良さそうだ。自身を振り返っても、語彙不足がたたってもどかしい思いとなることがしばしばである。
見事な文章といえば、その昔から朝日新聞の「天声人語」は定評があり、今でも、自分の文章に嫌気が差した時には "神頼み" さながら、「天声人語」の作風に学ぼうと声を出して朗読してみたりもする。
言うまでもなく、文章を書くということは "考える" ことを深めるということに尽きるはずだ。決して、美辞麗句を並べ立てるような技法を思い浮かべてはいない。たとえ語彙不足を痛感する際にも、響きのよい語彙、通りのよい語彙に拘泥しようと思ってそうするのではなくて、対象の描写や、自身の内面にあるものの "表現、定義" において、もっと的確な語彙、フィットする語彙ががありそうな気がして、それでもどかしい感情に引き込まれる。
もともと生じてはいないイメージをでっち上げるために語彙探しをするつもりは毛頭ない。むしろ、そんなことをすれば、他人の衣類を身にまとうような違和感で、さらにもどかしさが増幅されるに決まっているからだ。
見事な文章といえば、その昔から朝日新聞の「天声人語」は定評があり、今でも、自分の文章に嫌気が差した時には "神頼み" さながら、「天声人語」の作風に学ぼうと声を出して朗読してみたりもする。
言うまでもなく、文章を書くということは "考える" ことを深めるということに尽きるはずだ。決して、美辞麗句を並べ立てるような技法を思い浮かべてはいない。たとえ語彙不足を痛感する際にも、響きのよい語彙、通りのよい語彙に拘泥しようと思ってそうするのではなくて、対象の描写や、自身の内面にあるものの "表現、定義" において、もっと的確な語彙、フィットする語彙ががありそうな気がして、それでもどかしい感情に引き込まれる。
もともと生じてはいないイメージをでっち上げるために語彙探しをするつもりは毛頭ない。むしろ、そんなことをすれば、他人の衣類を身にまとうような違和感で、さらにもどかしさが増幅されるに決まっているからだ。
ところで、昨日今日の「天声人語」には、なるほどと感じさせられるような、そんな記述があった。
今も書いたように、自分が眼を向ける記述という場合、単なる言い回しや表現が巧みだからという点に限ろうとはしていない。その記述が進められた過程で "じっくりと考えられたこと" の、その内容とその妥当性などがよく伝わってくるような記述、それが着目されるべき文章ではないかと思っている。
その点で「天声人語」という文章は "コラム" という小スペースの文章ではありながら、その形にまとまるまでの思考の量は大変なもののはずであろう。
昨日の記述から、 "部分的" な引用をしようとしたが、結局、外す部分がないことになってしまった。
<今年の3月10日、東京大空襲の日の小欄で「戦争と平和をめぐる言葉の空疎化」について書いた。〈たとえば「戦争の悲惨さ」「命の大切さ」と言う。便利なだけに手垢(てあか)にまみれ、もはや中身はからっぽの感が強い〉と。少し言い過ぎかと思ったが、賛同の手紙を何通か頂戴(ちょうだい)した▼「平和の大切さ」も同じだろう。この手の紋切り型は納まりがよく、人を分かったような気にさせる。一方でものごとを抽象化し、どこか他人事のように遠ざける。往々にして、そこから先の問題意識と想像力を封じてしまう▼新聞も偉そうなことは言えない。「命の大切さを訴えた」「戦争の悲惨さを胸に」式の表現はけっこう目立つ。これで記事は一丁あがり、では書き手の考えも深まっていかない▼批評家の小林秀雄が能について述べた一節を思い出す。〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様(よう)なものはない〉。名高いくだりを借りて大胆に言うなら、「『大切な命』がある。『命の大切さ』という様なものはない」となろうか▼抽象的な「命の大切さ」でおしまいにせず、ひとりの「大切な命」についてこそが、もっと語られるべきだろう。「戦争の悲惨さ」は遠くても、「悲惨な戦争」の体験を聞けば、平和への思いは質量を増していくに違いない▼今日が何の日かを知らない若い世代が、ずいぶん増えていると聞く。わが身も含めて4人に3人が戦後生まれになった今、風化はいっそう容赦ない。伝える言葉に力を宿らせたいと、かつて破滅への道を踏み出した日米開戦の日に思う。>(朝日新聞「天声人語」2009.12.08)
特に注目したいのは次のフレーズであろう。
<「戦争の悲惨さ」「命の大切さ」と言う。便利なだけに手垢(てあか)にまみれ、もはや中身はからっぽの感が強い>
<この手の紋切り型は納まりがよく、人を分かったような気にさせる。一方でものごとを抽象化し、どこか他人事のように遠ざける。往々にして、そこから先の問題意識と想像力を封じてしまう>
<抽象的な「命の大切さ」でおしまいにせず、ひとりの「大切な命」についてこそが、もっと語られるべきだろう。>
"情報化時代" であるからこそ、 "言葉" の一人歩きや乱舞も展開し、にもかかわらず真に貴重なことがサラサラと指の間からこぼれ落ちているのに、そのことに気づかずにいるわれわれ......。
続いて今日の記述では何といっても次の点となろうか。
<......政権発足前の小欄で、中曽根元首相がかつて、鳩山氏に「政治は形容詞ではなく動詞でやるものだ」と注文をつけた逸話を書いた。そろそろ得意の形容詞ではなく、ゆるぎない動詞の出番である。......>(朝日新聞「天声人語」2009.12.08)
鳩山首相が "形容詞" の使い手であるのかどうかは別として、 "政治" に限らず、 "形容詞" 的情報ばかりが過剰にメディア空間を占有し、人々の意識を空疎なものにしているのが気になるところだ。 "動詞" に当たるであろう "行動" までもが "パフォーマンス" という名の "形容詞" に変質しているのもまた現実か......。
"言葉" のあり方を、人間個人が "自分の脳で考える" ということの重みとともに見つめ直さなければ、非常にマズイような気がする。何がどうなるからというのではなく、何もかもどうにもならなくなってしまうからと言うべきか...... (2009.12.09)
今も書いたように、自分が眼を向ける記述という場合、単なる言い回しや表現が巧みだからという点に限ろうとはしていない。その記述が進められた過程で "じっくりと考えられたこと" の、その内容とその妥当性などがよく伝わってくるような記述、それが着目されるべき文章ではないかと思っている。
その点で「天声人語」という文章は "コラム" という小スペースの文章ではありながら、その形にまとまるまでの思考の量は大変なもののはずであろう。
昨日の記述から、 "部分的" な引用をしようとしたが、結局、外す部分がないことになってしまった。
<今年の3月10日、東京大空襲の日の小欄で「戦争と平和をめぐる言葉の空疎化」について書いた。〈たとえば「戦争の悲惨さ」「命の大切さ」と言う。便利なだけに手垢(てあか)にまみれ、もはや中身はからっぽの感が強い〉と。少し言い過ぎかと思ったが、賛同の手紙を何通か頂戴(ちょうだい)した▼「平和の大切さ」も同じだろう。この手の紋切り型は納まりがよく、人を分かったような気にさせる。一方でものごとを抽象化し、どこか他人事のように遠ざける。往々にして、そこから先の問題意識と想像力を封じてしまう▼新聞も偉そうなことは言えない。「命の大切さを訴えた」「戦争の悲惨さを胸に」式の表現はけっこう目立つ。これで記事は一丁あがり、では書き手の考えも深まっていかない▼批評家の小林秀雄が能について述べた一節を思い出す。〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様(よう)なものはない〉。名高いくだりを借りて大胆に言うなら、「『大切な命』がある。『命の大切さ』という様なものはない」となろうか▼抽象的な「命の大切さ」でおしまいにせず、ひとりの「大切な命」についてこそが、もっと語られるべきだろう。「戦争の悲惨さ」は遠くても、「悲惨な戦争」の体験を聞けば、平和への思いは質量を増していくに違いない▼今日が何の日かを知らない若い世代が、ずいぶん増えていると聞く。わが身も含めて4人に3人が戦後生まれになった今、風化はいっそう容赦ない。伝える言葉に力を宿らせたいと、かつて破滅への道を踏み出した日米開戦の日に思う。>(朝日新聞「天声人語」2009.12.08)
特に注目したいのは次のフレーズであろう。
<「戦争の悲惨さ」「命の大切さ」と言う。便利なだけに手垢(てあか)にまみれ、もはや中身はからっぽの感が強い>
<この手の紋切り型は納まりがよく、人を分かったような気にさせる。一方でものごとを抽象化し、どこか他人事のように遠ざける。往々にして、そこから先の問題意識と想像力を封じてしまう>
<抽象的な「命の大切さ」でおしまいにせず、ひとりの「大切な命」についてこそが、もっと語られるべきだろう。>
"情報化時代" であるからこそ、 "言葉" の一人歩きや乱舞も展開し、にもかかわらず真に貴重なことがサラサラと指の間からこぼれ落ちているのに、そのことに気づかずにいるわれわれ......。
続いて今日の記述では何といっても次の点となろうか。
<......政権発足前の小欄で、中曽根元首相がかつて、鳩山氏に「政治は形容詞ではなく動詞でやるものだ」と注文をつけた逸話を書いた。そろそろ得意の形容詞ではなく、ゆるぎない動詞の出番である。......>(朝日新聞「天声人語」2009.12.08)
鳩山首相が "形容詞" の使い手であるのかどうかは別として、 "政治" に限らず、 "形容詞" 的情報ばかりが過剰にメディア空間を占有し、人々の意識を空疎なものにしているのが気になるところだ。 "動詞" に当たるであろう "行動" までもが "パフォーマンス" という名の "形容詞" に変質しているのもまた現実か......。
"言葉" のあり方を、人間個人が "自分の脳で考える" ということの重みとともに見つめ直さなければ、非常にマズイような気がする。何がどうなるからというのではなく、何もかもどうにもならなくなってしまうからと言うべきか...... (2009.12.09)
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