自分の第二の故郷とも言える "北品川" は、わがままな思いだとはわかっているが、そっと昔のままの相貌で取り残されてほしいと思ったりする。誰しもが、自分の心の故郷と思しき地域についてはそう考えるのではなかろうか。もちろん、寂れてほしいと願うはずはなく、何がしかの "面影" が残り続けてはくれまいか、という思いなのである。
幸いといってはまずいのだろうが、その "北品川" の一部、 "旧街道(旧東海道)" の商店街だけは、かつての "面影" を留め続けている。
昨夜に観たNHK番組『ブラタモリ 第9回 品川をブラタモリ』でも、この<今と昔が混在する不思議な町>がテーマとなり、昔の名残を留める部分として "北品川商店街" が紹介されていた。
その部分では、昭和30年代の商店街の街並みを髣髴とさせるような佇まいも見ることができた。中には、当時の "書店" ( "菅沼書店" )がそのままの姿で残されていたのには感極まる思いであった。ここしばらく、もう何年も足を向けていない商店街であったため、やはり懐かしい思いが込み上げてきた。
ただし、北品川の<今>の部分については、いつもそうであるが "興醒め" 著しい思いにさせられる。いわゆる<運河やウォーターフロント>、<お台場>がそれらである。
自分が小学生であった昭和30年代当時の光景については、 "ちょいとしたためた文章" (『かもめたちの行方』第三話 鍵っ子かもめの秘密 )を覗いてもらえればわかるが、江戸時代の宿場町 "品川宿" からさほど変わってはいないと極論しても通ってしまいそうな、そんな "生活臭" が漂う地域なのだった。
番組でも紹介されていたが、黒船向け "砲台(台場)" として江戸時代に作られた埋め立て地のひとつであった "第四台場(四号地)" は、現在のようなかなり広い "天王洲エリア" の一角として地続きに一体化されてはおらず、単独の "埋立地=四号地" として残されていたのであった。
そんなことをあえて強調するのは、その単独の "埋立地=四号地" という "島" (橋は架かっていた)は、冒険心旺盛な年頃である小学生にとって絶好の探検の場であり、当時、学校からは行ってはいけないと禁止されていたにもかかわらず、徒党を組んでは探検したことが懐かしい思い出として生き続けているからなのである。
さらに、番組では "石垣好きなタモリ" という文脈で紹介されていた、 "第四台場" に残された幕末以来の "石垣" については、タモリたちは "手漕ぎのゴムボート" で接近して観察していたが、小学生当時の自分たちは、近所の悪童連中と手製で作った "いかだ" に乗って間近で眼にしていたのだった。
<四号地の河岸のコンクリート壁には、細かい貝が付着し、フナ虫がざわざわと蠢いていた。時々、壁に叩きつけられた波が、白い波しぶきをつくっていた。>(上記『かもめたちの行方』より)
これらの "石垣" の石が、幕末の建造時に<真鶴などから船で運ばれた石>であったことは初耳であった。それにしても、まるで "テーマ・パーク" のように変わり果てて "興醒め" 以外の何物でもなくなっていた<ウォーターフロント>の一角に、そうして "人知れず" 当時のままの名残が潜んでいたことはちょっとした感激ではあった。
この北品川や品川ほどに町の景観がガラリと変わってしまった例は、全国でも珍しいのではないかと思う。確かに、7、80年代からの都市空間の変わり様は、オールド世代の者たちを "浦島太郎" の気分にさせるものであり、この点は、品川に限らず程度の差こそあれ全国区的な推移なのであろう。
<地域が育んできた記憶や日常的習慣の積層から街区を切断し、空間を自己完結的な論理によって構成しなおしていくこと>(吉見俊哉『ポスト戦後社会 シリーズ日本近現代史⑨』岩波新書)、<都市のメディア化>(同書)とでも言えそうな変化が、全国各地で展開されてきたのであろうか。この動向は、グローバリズム経済の段階でさらに拍車が掛けられもしたはずである。
現在のこの国の都市空間の光景は、自分のようなオールド世代の者にはどうも落ち着かない違和感だけを巻き散らかしているような気がしないでもない。
もし、そう感じる者とそうでない者との境界線があるとすれば、 "ディズニーランド" を居心地良い場所と思えるかそうでないかの境界線と同種であるのかもしれない...... (2009.12.11)
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