ここで書くことは "常に中途半端" だと自覚している。単なる印象でそう思うのではなく、きっと "構造的" にそうなのだろうと、まるで "確信犯" 的にそう思う。
と言うのも、理由があるからだ。自分にとってわかり切ったことは書きたくないし、 "入念" に下準備をして、 "パーフェクトもどき" の主張なり何なりを書くほどの真面目さもない。
と言うか、 "入念" な準備をするということになると、簡単に入手できるメディアからの情報類を "批判的に吟味" する作業が必要となり、ただでさえ、メディアやそこでの常連たちが "御用提灯的" に書き殴っていることの "いい加減さ" が払拭できないでいる自分にとっては、その作業には膨大な労力が必要となりそうだからだ。
それにしても、現代という時代環境は、一個人が調べ上げられないような複雑な事象が多過ぎる。一個人としては何にせよ事実の全体像が掌握し切れない環境だ。だから、常に環境に関する事実認識が曖昧模糊とした中途半端なものにとどまり、そこへ持って来て、メディアが "親切ごかし" にある事ないことを、 "手前勝手" な料理をして報じるものだから、事はさらにややこしくなったりもする。
しかも既存のメディアは、何の根拠があってか、さも自らに "正当さ" があるがごとく振舞うから紛らわしくてならない。
と言うのも、理由があるからだ。自分にとってわかり切ったことは書きたくないし、 "入念" に下準備をして、 "パーフェクトもどき" の主張なり何なりを書くほどの真面目さもない。
と言うか、 "入念" な準備をするということになると、簡単に入手できるメディアからの情報類を "批判的に吟味" する作業が必要となり、ただでさえ、メディアやそこでの常連たちが "御用提灯的" に書き殴っていることの "いい加減さ" が払拭できないでいる自分にとっては、その作業には膨大な労力が必要となりそうだからだ。
それにしても、現代という時代環境は、一個人が調べ上げられないような複雑な事象が多過ぎる。一個人としては何にせよ事実の全体像が掌握し切れない環境だ。だから、常に環境に関する事実認識が曖昧模糊とした中途半端なものにとどまり、そこへ持って来て、メディアが "親切ごかし" にある事ないことを、 "手前勝手" な料理をして報じるものだから、事はさらにややこしくなったりもする。
しかも既存のメディアは、何の根拠があってか、さも自らに "正当さ" があるがごとく振舞うから紛らわしくてならない。
"常に中途半端" になりがちなもうひとつの理由は、自身の、この文章(日誌、日次エッセイ?)を書くことへの姿勢にも起因している。
簡単に言うと、どうせ大した結論が書けるわけでは毛頭ないので、それを重視するというよりも、その日その日に書くことで自身の問題意識を探ったり、きっかけを掴んだりというように、 "自身の・自身による・自身のための" 文章にしようとしているからなのである。
そうしていると、書きはじめてしまうことは、七、八割、考え尽くしてまとまってきたことというよりも、七、八割が霧の向こうの光景のように暗中模索状態であって、それでいて二、三割程度の書こうとする動機が立ち上がろうとしている、そんな対象や内容となるのである。
たぶん、もしこうした書き方が "けしからん!" ということになれば、書くことができないし、また書く必要を感じなくなるのだろうと確信している。
要するに人生と同じであり、 "七、八割が霧の向こうの光景のように暗中模索状態" であるからこそ、 "まあ、ひとつ、くさらずに歩いてみるか......" ということになるのではなかろうか。
そう考えると、尚のこと、メディアの "常道的振る舞い" がこの上なくあほらしく思えるし、また、そうした呑み込み易い "流動食(?)" を唯々諾々と脳に流し込んでしまっている者たちに違和感を感じたりする。
確かに、庶民一個人は、複雑怪奇になってしまった現代の社会的事象をトータルに判断できる立場に置かれてはいないことは上でも書いた。
ならば、少なくともたったひとつの懐疑心だけでも持つべきではなかろうか。
それは実に簡単なことであり、この現代社会にあっては、 "インタレスト(収益)・オリエンティッド" な振る舞いだけが通りが良くなってしまう傾向にあり、しかも当事者たるメディア組織の図体が嵩張れば嵩張るほどにその度合いは色濃く反映されるに違いない、ということだ。
胸襟を開いて聴く耳を持って良い対象は、収益とは特に縁もなく、情報らしからぬ情報を不器用に発信しているところくらいだろう。まあ、それとて警戒心無しでというわけにはゆかない物騒さではあるが...... (2009.12.16)
簡単に言うと、どうせ大した結論が書けるわけでは毛頭ないので、それを重視するというよりも、その日その日に書くことで自身の問題意識を探ったり、きっかけを掴んだりというように、 "自身の・自身による・自身のための" 文章にしようとしているからなのである。
そうしていると、書きはじめてしまうことは、七、八割、考え尽くしてまとまってきたことというよりも、七、八割が霧の向こうの光景のように暗中模索状態であって、それでいて二、三割程度の書こうとする動機が立ち上がろうとしている、そんな対象や内容となるのである。
たぶん、もしこうした書き方が "けしからん!" ということになれば、書くことができないし、また書く必要を感じなくなるのだろうと確信している。
要するに人生と同じであり、 "七、八割が霧の向こうの光景のように暗中模索状態" であるからこそ、 "まあ、ひとつ、くさらずに歩いてみるか......" ということになるのではなかろうか。
そう考えると、尚のこと、メディアの "常道的振る舞い" がこの上なくあほらしく思えるし、また、そうした呑み込み易い "流動食(?)" を唯々諾々と脳に流し込んでしまっている者たちに違和感を感じたりする。
確かに、庶民一個人は、複雑怪奇になってしまった現代の社会的事象をトータルに判断できる立場に置かれてはいないことは上でも書いた。
ならば、少なくともたったひとつの懐疑心だけでも持つべきではなかろうか。
それは実に簡単なことであり、この現代社会にあっては、 "インタレスト(収益)・オリエンティッド" な振る舞いだけが通りが良くなってしまう傾向にあり、しかも当事者たるメディア組織の図体が嵩張れば嵩張るほどにその度合いは色濃く反映されるに違いない、ということだ。
胸襟を開いて聴く耳を持って良い対象は、収益とは特に縁もなく、情報らしからぬ情報を不器用に発信しているところくらいだろう。まあ、それとて警戒心無しでというわけにはゆかない物騒さではあるが...... (2009.12.16)
コメントする