"日誌" というようなものを書くということは、その日一日に遭遇した事柄をきっかけにして、結局は、自身にとっての "普遍的な世界" とでもいうようなものを描き出す(再認識する)ということになるのであろうか。
つまり、書いている個別の対象それ自体が当面の関心事ではあるのだが、それが "終着駅" 、ターゲットではなくて、それを通して自分にとっての "普遍的な世界" を探っている、というのが真実であるように思える。
ただ、こうした発想に立つと、その関係は何も日誌を書くということに限られず、どんなことをする場合にも、具体的で直接的なアクションは当面の手段であり、それを通して何か "普遍的なもの" を求めている、ということになるのかもしれない。
スナップ写真で何か風景を撮る場合にも、確かにその "個別の風景" に惹かれるからなのであろうが、その個別の風景の向こうに、この世界の "普遍的なもの" を感じ取っていたりするのではなかろうか。
さらに、人は職業に就く。自身に見合ったジャンルの職に就く。その具体的なきっかけはいろいろであろうが、やがてその職業活動を通して眼を向けていくのは、もちろんその個別のジャンルの深みであろうが、それとともに、個別のジャンルを超えて広がる "普遍的な世界" だとも言えそうである。「一芸に秀でるものは......」ということわざはその辺のことを意味していそうだ。
つまり、書いている個別の対象それ自体が当面の関心事ではあるのだが、それが "終着駅" 、ターゲットではなくて、それを通して自分にとっての "普遍的な世界" を探っている、というのが真実であるように思える。
ただ、こうした発想に立つと、その関係は何も日誌を書くということに限られず、どんなことをする場合にも、具体的で直接的なアクションは当面の手段であり、それを通して何か "普遍的なもの" を求めている、ということになるのかもしれない。
スナップ写真で何か風景を撮る場合にも、確かにその "個別の風景" に惹かれるからなのであろうが、その個別の風景の向こうに、この世界の "普遍的なもの" を感じ取っていたりするのではなかろうか。
さらに、人は職業に就く。自身に見合ったジャンルの職に就く。その具体的なきっかけはいろいろであろうが、やがてその職業活動を通して眼を向けていくのは、もちろんその個別のジャンルの深みであろうが、それとともに、個別のジャンルを超えて広がる "普遍的な世界" だとも言えそうである。「一芸に秀でるものは......」ということわざはその辺のことを意味していそうだ。
しかし、こうした "個別と普遍" との関係は、必ずしも自然で一般的だとは言えない。いや、むしろ、意識的、意図的に構えなければ叶うことではないのかもしれない。
現に、現代のさまざまな領域における過激な "専門分化" の状況が、いわば "袋小路" のような閉塞的な状態とまで成り果てているのは、「木を見て森を見ず」のたとえがそのまま当てはまる事態となっているからなのであろう。
さらに、現代の文化現象のひとつとして久しく口にされてきた "オタク" 文化の流行、隆盛、そして昨今での一般化は、まさに、断片的な "個別" の事柄への過剰なのめりこみであり、もはや "個別" の差異そのものの蒐集が自己目的と化している。それを通して次のステップで何か "普遍的なもの" が探られるといった気配はなさそうである。 "袋小路" にそのまま安住しているかのようでもある。
ただ、 "オタク" 現象も、さらに洞察され尽くすと、次のような "どんでん返し" の把握にもなりそうだ。
<オタクたちは、常に、ごく些細な、極端にローカルで部分的な何かに、情熱を差し向ける。だが、その一小部分に、その断片に、普遍的な世界が圧縮され、写像されているのである。>(大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書 2008.04.22)
<しばしば、オタクは、狭く、特殊な事柄にしか関心を向けていない、と批判される。しかし、その特殊な領域を通じて、包括的な普遍性が分節されているのである。真に欲望されているのは、普遍性である。普遍性が、そのまったき反対物として現象することで、直接の欲望の対象となること、このことこそが、オタクの神秘の核心ではないか。>(同上)
<真に欲望されているのは、普遍性である。>と断言するにはいま少しの解説が欲しいところであろう。 "部分の中に全体がある" とされる "ホログラフィー" 理論を思い浮かべることも可能であり、きわめて興味深いことは確かである。
"オタク" たちが眼を輝かせる対象にはさほど興味が抱けない自分でありながら、こうした "オタク" 心理の構造に関心を持つのにはそれなりの理由があるといえばある。
つまり、現代という時代環境は、ますますその "全体像" がそっくり "闇" に隠れるがごとく、捉え難くなっているからなのだ。そのため、<特殊な事柄>に拘泥しつつ、<その特殊な領域を通じて、包括的な普遍性が分節されている>事実をつきとめざるを得ない、からなのである。
ひょっとすれば、不透明に過ぎる現代という時代環境にあっては、その "過激度" の程度は別にして、 "一億総オタク" 化への傾斜が強まっているのかもしれない...... (2009.12.20)
現に、現代のさまざまな領域における過激な "専門分化" の状況が、いわば "袋小路" のような閉塞的な状態とまで成り果てているのは、「木を見て森を見ず」のたとえがそのまま当てはまる事態となっているからなのであろう。
さらに、現代の文化現象のひとつとして久しく口にされてきた "オタク" 文化の流行、隆盛、そして昨今での一般化は、まさに、断片的な "個別" の事柄への過剰なのめりこみであり、もはや "個別" の差異そのものの蒐集が自己目的と化している。それを通して次のステップで何か "普遍的なもの" が探られるといった気配はなさそうである。 "袋小路" にそのまま安住しているかのようでもある。
ただ、 "オタク" 現象も、さらに洞察され尽くすと、次のような "どんでん返し" の把握にもなりそうだ。
<オタクたちは、常に、ごく些細な、極端にローカルで部分的な何かに、情熱を差し向ける。だが、その一小部分に、その断片に、普遍的な世界が圧縮され、写像されているのである。>(大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書 2008.04.22)
<しばしば、オタクは、狭く、特殊な事柄にしか関心を向けていない、と批判される。しかし、その特殊な領域を通じて、包括的な普遍性が分節されているのである。真に欲望されているのは、普遍性である。普遍性が、そのまったき反対物として現象することで、直接の欲望の対象となること、このことこそが、オタクの神秘の核心ではないか。>(同上)
<真に欲望されているのは、普遍性である。>と断言するにはいま少しの解説が欲しいところであろう。 "部分の中に全体がある" とされる "ホログラフィー" 理論を思い浮かべることも可能であり、きわめて興味深いことは確かである。
"オタク" たちが眼を輝かせる対象にはさほど興味が抱けない自分でありながら、こうした "オタク" 心理の構造に関心を持つのにはそれなりの理由があるといえばある。
つまり、現代という時代環境は、ますますその "全体像" がそっくり "闇" に隠れるがごとく、捉え難くなっているからなのだ。そのため、<特殊な事柄>に拘泥しつつ、<その特殊な領域を通じて、包括的な普遍性が分節されている>事実をつきとめざるを得ない、からなのである。
ひょっとすれば、不透明に過ぎる現代という時代環境にあっては、その "過激度" の程度は別にして、 "一億総オタク" 化への傾斜が強まっているのかもしれない...... (2009.12.20)
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