今日もまた "年の瀬" ならではの慌しい一日を過ごした。
いよいよ完了間近となった一連の "補修" 作業に精を出すとともに、玄関まわりのビニール製壁紙の汚れ落としなんぞを敢行した。またその合間をぬって、おふくろ、家内との三人で今年最後の墓参りにも出かける。
墓参りは、おふくろの肝いりの恒例行事である。今年も "しっかりと生き長らえることができました" と、先立った亡父にご報告しなければ、年は越せないといったところなのであろう。
"年の瀬" の菩提寺は、訪れている者も見当たらず閑散としていた。別に盆でも何でもない時期なので、寺が混んでいなければならない理由は何もない。まして年末の何かと慌しい頃なので、むしろ年が明けてからの墓参りという趣向であっても一向に差し支えないはずだ。ただ、初詣は、寺というよりも "神社" だという向き、現世のご利益目当てが一般的であることを思うと、新年を迎えてからの何望むとはなき墓参りというのも考えにくいのかもしれない。
いよいよ完了間近となった一連の "補修" 作業に精を出すとともに、玄関まわりのビニール製壁紙の汚れ落としなんぞを敢行した。またその合間をぬって、おふくろ、家内との三人で今年最後の墓参りにも出かける。
墓参りは、おふくろの肝いりの恒例行事である。今年も "しっかりと生き長らえることができました" と、先立った亡父にご報告しなければ、年は越せないといったところなのであろう。
"年の瀬" の菩提寺は、訪れている者も見当たらず閑散としていた。別に盆でも何でもない時期なので、寺が混んでいなければならない理由は何もない。まして年末の何かと慌しい頃なので、むしろ年が明けてからの墓参りという趣向であっても一向に差し支えないはずだ。ただ、初詣は、寺というよりも "神社" だという向き、現世のご利益目当てが一般的であることを思うと、新年を迎えてからの何望むとはなき墓参りというのも考えにくいのかもしれない。
ところで、現在の世相は、あの世へ逝った仏さんよりも、生きて闘わざるを得ない "生き仏" たちの必死の形相での生きる段取り、それに邁進することが何よりの急務のようだ。そして、そうこうしているうちに、あの世の仏さんたちの存在感が見る見る霞んでしまい、額面どおり無いものと見なしても何ら差し支えないことのようになってしまったのであろうか。
「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」という懐かし過ぎる呟き(金子みすゞ)がまるで聞こえなくなってしまったようなこの世は、やはりそこはかとなく寂しい気がしたりする。
星とたんぽぽ
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのやうに、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
散つてすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春がくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
「見えぬものでもある」とする、そんな存在からの "眼差し=視線" を見失ってしまった世界で、 "羅針盤" を生み出し得なくなっているのかもしれない "流浪の民" ......。そんなわれわれ現代人たちに、新しい年はどんな表情で鼻っ面を見せるのだろうか...... (2009.12.28)
「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」という懐かし過ぎる呟き(金子みすゞ)がまるで聞こえなくなってしまったようなこの世は、やはりそこはかとなく寂しい気がしたりする。
星とたんぽぽ
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのやうに、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
散つてすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春がくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
「見えぬものでもある」とする、そんな存在からの "眼差し=視線" を見失ってしまった世界で、 "羅針盤" を生み出し得なくなっているのかもしれない "流浪の民" ......。そんなわれわれ現代人たちに、新しい年はどんな表情で鼻っ面を見せるのだろうか...... (2009.12.28)
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