ようやく今日で、家の中の気になっていた "補修" 必要箇所をカバーできたかのようだ。いや、そう決め付けでもしない限り、こうした作業はエンドレスとなりかねないわけだ。
たとえば、壁の汚れにしたところが、さし当たって目立つ箇所というふうに限定でもしなければ、延々と "戦線拡大" してしまう。それほどに、日頃、こまめな掃除を怠っているからだ。まあ、これでよしとしようと "区切り" を付けた次第なのである。
こんな年の瀬には、混雑するに決まっている街中にクルマを出して買い物に行くということは避けたいと思っていた。が、家内の買い物に付き合い、よんどころなく不愉快な街中へとクルマで向かうことになってしまった。
案の定、クルマは渋滞し、予想どおりの "不快感" を堪能(?)した。常々思うことであるが、現在の人間社会が織り成す "アナーキー" さは、いろいろな事象にその片鱗を見ることができるが、手っ取り早く納得(?)するには、街中をクルマで走るだけで十分であろう。
交通マナーの崩れどころではなく、一触即発の危険と接した "自分本位" さが眼に余る。 "オレが、自分が......" と、大半のドライバーが自分を剥き出しにしていそうだ。
もう少しあっても良さそうだと思える "謙虚さ" であるとか、 "慎ましさ" などどこを探しても見出せない。 "公共性" の感覚すら吹き飛んでいそうだ。
これが、たとえ人身事故を起こしたとしても、最悪に卑劣な行為である "轢き逃げ" へと流れる世相なのかとぞっとさせるものがある。
出向いた大型ショップは、案の定、買い物客でひしめく混雑ぶりであった。
ただでさえ、人込みを避けたい性質(たち)である "出不精" な自分は、一時も早くその場を立ち去りたい心境であった。まさに、 "わしはこんなところへは来とうはなかった!" という "耳に残る言葉" が脳裏をよぎったものだ。
別に、そこまで買い物客で賑わうショップ内光景を嫌うこともなかろうに、と自身に言い聞かせはするが、どうも昨今では市場が内に秘めた底知れぬ "矛盾めいたもの" が引っかかっているのかもしれない。あの、誰も救われる者がいない "安売り競争" というイメージなのであろうか......。
ほうほうの体で帰宅。ネットで今日のニュース報道をチェックしたが、気になった記事は以下の報道であった。
<資金難 ホームレス自立所 南区「みやび」活動の危機
ホームレスの人が自立を目指して働く作業所「みやび」(京都市南区)が、資金難で活動の危機にさらされている。活動を始めて1年がたち、少しずつ仕事の受注は増えているが、赤字が続く。新年からは移転で家賃が10倍以上になるといい、関係者は「働く場を守りたいのに、このままでは活動ができなくなる」と訴えている。
「みやび」は昨年11月、ホームレスの人が生活保護に頼らず、自立のための資金を稼ごうと発足した。引っ越しやリサイクル、草刈りなどを請け負い、賃金を分け合う仕組みだ。東京都で2002年に元路上生活者がリサイクルショップを始め、企業組合「あうん」として成長しており、「みやび」も同様の発展を目指している。......>( 2009.12.29 京都新聞)
昨日は、「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」という視点で、現代のわれわれの意識から抜け落ちている "死者たちの霊/超越者......" に眼を向けてみた。
しかし、見えないから無い! と決め付けているのは、そうした存在だけでもなさそうで、 "社会から弾き出された人々の不幸" についても、同様の感覚論理が働いているのかもしれない。個々人が、見て見ぬ振りをするというよりも、社会の構造自体がそうした "振り" をする傾向に傾いているのではなかろうかと...... (2009.12.29)
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