夕刻のつい先ほど、近所の店に買い物に出たが、まぁ、何と冷たい木枯らしが吹きすさんでいたことか。年明けての正月の寒さが思いやられた。各地で大雪が降るとの予報だが、関東地方にもひょっとすれば雪がちらついたりするのだろうか......。
まさに激動の一年であった。公私ともどもに、そうであったと言うほかない。
そんな推移にあって、改めて自覚させられた点は二点。
その一点は、物事の掌握は大きな視界で大掴みに! ということ。 "大局的見地" を得る、ということになろうか。
そして、二点目は、環境変化をもたらす速度の高速化に躊躇しない "迅速な行動" といったところか。
どちらも、特に目新しいことでも何でもなく言われ尽くされた教訓であろう。だが、今年ほどこれらの点を痛感せざるを得なかった年はない。
決して、これらを首尾よく実践できたということなんかではない。かろうじて意識できたというに留まる。
ただ、一点目については、明確に意識できたのはやや遅きに失したが、そのウォームアップ的なこと、つまり "時代の状況認識、現状認識" に関しては常々うだうだと気に掛けてきたことが幾分なりとも奏功したような気がしている。
"閉塞" だとか、 "不透明" だとかと、まるで匙を投げての評価のような時代相貌が続いたし、また今なおそのままであろう。こうした時期には、 "時代の状況認識、現状認識" という課題に立ち向かうことは、苦痛以外の何ものでもない。
まさに激動の一年であった。公私ともどもに、そうであったと言うほかない。
そんな推移にあって、改めて自覚させられた点は二点。
その一点は、物事の掌握は大きな視界で大掴みに! ということ。 "大局的見地" を得る、ということになろうか。
そして、二点目は、環境変化をもたらす速度の高速化に躊躇しない "迅速な行動" といったところか。
どちらも、特に目新しいことでも何でもなく言われ尽くされた教訓であろう。だが、今年ほどこれらの点を痛感せざるを得なかった年はない。
決して、これらを首尾よく実践できたということなんかではない。かろうじて意識できたというに留まる。
ただ、一点目については、明確に意識できたのはやや遅きに失したが、そのウォームアップ的なこと、つまり "時代の状況認識、現状認識" に関しては常々うだうだと気に掛けてきたことが幾分なりとも奏功したような気がしている。
"閉塞" だとか、 "不透明" だとかと、まるで匙を投げての評価のような時代相貌が続いたし、また今なおそのままであろう。こうした時期には、 "時代の状況認識、現状認識" という課題に立ち向かうことは、苦痛以外の何ものでもない。
しかし、これらに面と向かうことなしには何も生まれてはこない。何の手掛かりもなく、暗闇というか白々とした霧の中をまさぐるだけの徒労からは、きっと何も始まらないはずである。
どんなに悲観的なものであれ、将来展望が描き辛いような現実ではあっても、そんな "現状" がどのような "経緯、文脈" で生じているのかに眼を凝らす必要がある。山で道に迷った際の唯一の前向きな方策は、右往左往して混乱を増すのではなく、 "現在地" の確認に最大限の注意を払うことだというのは定石中の定石のはずだからだ。
ここに、 "時代の状況認識、現状認識" という課題が、どんなに鬱陶しいものであっても避けられない理由があると言える。
とはいっても、自分が今、クリアーな "現状認識" に立ちつつあるなんぞとは到底言えない。高々、この課題が必須であることと、この課題に直面するささやかな気力を持っていそうだと思えるだけなのである。
また、この課題を引き受けて行く際には、とにかく枝葉末節に拘泥せずに、 "太いライン" が浮かび上がることこそに着目すべきだろうと感じ取っている。混乱を極めた時代環境にあっては、いつも根拠希薄な枝分かれ状態が事態の概観をより複雑に見えさせているはずであるから、 "太いライン" や "溝の深いライン" をこそ探る必要がありそうだ。
二点目の課題は、第一点目の課題の首尾如何でほぼ決まるのだろうと予感している。何の裏打ちもない "迅速な行動" は無意味であろうし、 "現在地" が確認されれば、 "迅速さ" は自ずと決定されるとも考えられるからだ。
ただ、現代という時代は、技術的環境によってあらゆるところにあらゆる形で時間的速度を加速させる "てこの原理(レバレッジ)" が張り巡らされている、超加速世界であるため、 "スピード感覚" に最大限留意すべきかと思うわけだ。
ところで、こうしたことを考えてみると、これらの課題にとっての最も警戒すべき "ハザード(障害)" は、 "固定観念や固定感覚" なのではなかろうかと気になる。それらは、激動の時代以前の環境で、ほとんど無意識のうちにわれわれの意識・感覚に浸透し、そして、 "不良在庫一掃(?)" というイベントを経ることもなく惰性でわれわれの内に居座っているからだ。考えようによっては、そうした "残渣" が人々を必要以上に悩ませている場合さえありそうな気もしないではない。
まったく唐突ではあるが、この時期になぜ『坂の上の雲』というドラマ世界が必要なのであろうか......。 "仕分け作業" に掛けたいほどである。ドキュメンタリー番組では着目しているNHKであるが、ドラマの選定の運びにはどうもついて行けないでいる...... (2009.12.31)
どんなに悲観的なものであれ、将来展望が描き辛いような現実ではあっても、そんな "現状" がどのような "経緯、文脈" で生じているのかに眼を凝らす必要がある。山で道に迷った際の唯一の前向きな方策は、右往左往して混乱を増すのではなく、 "現在地" の確認に最大限の注意を払うことだというのは定石中の定石のはずだからだ。
ここに、 "時代の状況認識、現状認識" という課題が、どんなに鬱陶しいものであっても避けられない理由があると言える。
とはいっても、自分が今、クリアーな "現状認識" に立ちつつあるなんぞとは到底言えない。高々、この課題が必須であることと、この課題に直面するささやかな気力を持っていそうだと思えるだけなのである。
また、この課題を引き受けて行く際には、とにかく枝葉末節に拘泥せずに、 "太いライン" が浮かび上がることこそに着目すべきだろうと感じ取っている。混乱を極めた時代環境にあっては、いつも根拠希薄な枝分かれ状態が事態の概観をより複雑に見えさせているはずであるから、 "太いライン" や "溝の深いライン" をこそ探る必要がありそうだ。
二点目の課題は、第一点目の課題の首尾如何でほぼ決まるのだろうと予感している。何の裏打ちもない "迅速な行動" は無意味であろうし、 "現在地" が確認されれば、 "迅速さ" は自ずと決定されるとも考えられるからだ。
ただ、現代という時代は、技術的環境によってあらゆるところにあらゆる形で時間的速度を加速させる "てこの原理(レバレッジ)" が張り巡らされている、超加速世界であるため、 "スピード感覚" に最大限留意すべきかと思うわけだ。
ところで、こうしたことを考えてみると、これらの課題にとっての最も警戒すべき "ハザード(障害)" は、 "固定観念や固定感覚" なのではなかろうかと気になる。それらは、激動の時代以前の環境で、ほとんど無意識のうちにわれわれの意識・感覚に浸透し、そして、 "不良在庫一掃(?)" というイベントを経ることもなく惰性でわれわれの内に居座っているからだ。考えようによっては、そうした "残渣" が人々を必要以上に悩ませている場合さえありそうな気もしないではない。
まったく唐突ではあるが、この時期になぜ『坂の上の雲』というドラマ世界が必要なのであろうか......。 "仕分け作業" に掛けたいほどである。ドキュメンタリー番組では着目しているNHKであるが、ドラマの選定の運びにはどうもついて行けないでいる...... (2009.12.31)
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