「あなたの "為" だから......」というフレーズを何度も繰り替えしつつ、ダジャレとして金融商品の "外為" へと誘うCMがあった。
センスを疑いたくなる出来のCMだと思えたが、ひとつ思い当たるのは、ひょっとしたら制作者たちは、 "確信犯" 的にこのCMを作ったのかもしれない、という点だ。
この時代、「あなたの "為" だから......」というアプローチで勝手なことがされてしまう、いわゆる "お為ごかし" に現代人たちは辟易(へきえき)としているはずだからである。そもそもCMというもの自体が、その最たるものであり、潜在的消費者を相手にした「あなたの "為" だから......」という触れ込みの下で、実のところは、自社商品の売り込み以外に何ら実のある関心はありようはずがない。
当該のCMも、思い出してみるならば、「あなたの "為" だから......」というセリフの下に、あなたのダイエットのためなんだからこのケーキは食べてあげるねッ、といった意地悪い光景を演出しているのである。
つまり、日頃、 "お為ごかし" で "やられまくっている" 人々の憤懣やるかたない気分をしっかりと "なぞりながら" のCMだったのである。逆説的な文脈で、印象や記憶を深めようと意図したのであろうか......。
センスを疑いたくなる出来のCMだと思えたが、ひとつ思い当たるのは、ひょっとしたら制作者たちは、 "確信犯" 的にこのCMを作ったのかもしれない、という点だ。
この時代、「あなたの "為" だから......」というアプローチで勝手なことがされてしまう、いわゆる "お為ごかし" に現代人たちは辟易(へきえき)としているはずだからである。そもそもCMというもの自体が、その最たるものであり、潜在的消費者を相手にした「あなたの "為" だから......」という触れ込みの下で、実のところは、自社商品の売り込み以外に何ら実のある関心はありようはずがない。
当該のCMも、思い出してみるならば、「あなたの "為" だから......」というセリフの下に、あなたのダイエットのためなんだからこのケーキは食べてあげるねッ、といった意地悪い光景を演出しているのである。
つまり、日頃、 "お為ごかし" で "やられまくっている" 人々の憤懣やるかたない気分をしっかりと "なぞりながら" のCMだったのである。逆説的な文脈で、印象や記憶を深めようと意図したのであろうか......。
それはともかくとして、 "満身創痍" と言わざるを得ない現代という時代で、人々はさまざまな "不信感" に陥れられていようかと見える。そして、そのひとつが "お為ごかし" 現象ではないかと推測する。
それというのも、超過剰な市場主義が行き渡ると、セールスは限りなく "お為ごかし" アプローチへと接近するからだ。 "詐欺" 行為との類似性は強まり、それとの隔たりは僅差なものとなっていく。
ところで、こうした "お為ごかし" への拒絶感覚は、場合によっては、「何々の為に......」という思考パターンや感覚パターンにさえ、奇妙な "アレルギー" を抱かせるようになってはいないかと心配するのである。
感受性旺盛な子どもたちのことを例にすれば、大人たちのホンネも類推できそうな気がする。とにかく、今どきの子どもたちが "耳たこ" になっているフレーズのひとつに、何あろう、「あなたの "為" だから......」や、「将来の "為" だから......」というのがありそうではないか。
これらのフレーズの発話者は何も "ママ&パパ" とは限らない。最も強引な発話者は当然 "塾" などの教師であろうが、学校の先生たちとて同様なのかもしれず、子どもたちはこうした発話者たちに全面包囲されていそうだ。
ひょっとしたら、そうした振る舞いを最もしそうにないと思しき "デジタル・ゲーム" でさえ、 "為の論理" を画策し、「より楽しむ "為" に......」、「より腕を上げる "為" に......」と囁き掛けていないとは言えまい。
「何々の為に......」という視点自体をここまで揶揄することもなさそうな気もしないではない。まして、すべてを "お為ごかし" だと決めつけるのは行き過ぎか......。
しかし、その "甘さと油断" (?)こそが、 "お為ごかし" 路線の "繁栄と跋扈" とをもたらしたのだとしたら......。
少なくとも、「何々の為に......」という心理的起動がかかるならば、心ここにあらずとなりそうであるし、現時点での今の所作が "手段化" することが避けられないのではなかろうか。そうこうしているうちに、 "手段化" された所作の連鎖が形成され続けて行くのが現実なのかもしれないからだ。
現代の "お為ごかし" 潮流に生理的嫌悪感を抱く人々というのは、意外と、こうした避け難い、狡猾な現実を薄々であるか、濃厚にであるかは別として、肌身で感じ取っているのかもしれない...... (2010.01.06)
それというのも、超過剰な市場主義が行き渡ると、セールスは限りなく "お為ごかし" アプローチへと接近するからだ。 "詐欺" 行為との類似性は強まり、それとの隔たりは僅差なものとなっていく。
ところで、こうした "お為ごかし" への拒絶感覚は、場合によっては、「何々の為に......」という思考パターンや感覚パターンにさえ、奇妙な "アレルギー" を抱かせるようになってはいないかと心配するのである。
感受性旺盛な子どもたちのことを例にすれば、大人たちのホンネも類推できそうな気がする。とにかく、今どきの子どもたちが "耳たこ" になっているフレーズのひとつに、何あろう、「あなたの "為" だから......」や、「将来の "為" だから......」というのがありそうではないか。
これらのフレーズの発話者は何も "ママ&パパ" とは限らない。最も強引な発話者は当然 "塾" などの教師であろうが、学校の先生たちとて同様なのかもしれず、子どもたちはこうした発話者たちに全面包囲されていそうだ。
ひょっとしたら、そうした振る舞いを最もしそうにないと思しき "デジタル・ゲーム" でさえ、 "為の論理" を画策し、「より楽しむ "為" に......」、「より腕を上げる "為" に......」と囁き掛けていないとは言えまい。
「何々の為に......」という視点自体をここまで揶揄することもなさそうな気もしないではない。まして、すべてを "お為ごかし" だと決めつけるのは行き過ぎか......。
しかし、その "甘さと油断" (?)こそが、 "お為ごかし" 路線の "繁栄と跋扈" とをもたらしたのだとしたら......。
少なくとも、「何々の為に......」という心理的起動がかかるならば、心ここにあらずとなりそうであるし、現時点での今の所作が "手段化" することが避けられないのではなかろうか。そうこうしているうちに、 "手段化" された所作の連鎖が形成され続けて行くのが現実なのかもしれないからだ。
現代の "お為ごかし" 潮流に生理的嫌悪感を抱く人々というのは、意外と、こうした避け難い、狡猾な現実を薄々であるか、濃厚にであるかは別として、肌身で感じ取っているのかもしれない...... (2010.01.06)
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