普通に往来していてもそうだろうが、それなりの距離をウォーキングしていると、嫌でも不愉快なモノが眼に入る。今年7月に予定されている参院選向けが明らかな候補者と思しき者たちの "事前ポスター" である。一応、何らかの講演会の "弁士" という "逃げ" を銘打ってはいる。
まあ、ありそうなことであり、了解して往なせば良さそうなものでもあるが、 "不愉快さと不快感" という正直な感覚は打ち消せないでいる。 "選挙" は "手段" であり、政治家としての "実質" 的役割はどこへ置いてきてるの? と言ってやりたいものだ。
だから、「あなたたち政治家の関心は、 "選挙" だけなんだね!」と、わかり切ったことを復唱してみたくもなる。あまり "物分りの良さ" を発揮してはいけないからだ。
ほとんどすべてに渡って、いわば "物分りの悪さ" で遇されている庶民が、なぜ、 "政治" を司る者たちの "身勝手さ、横柄さ" に対して "物分りの良さ" を発揮しなくてはならないか......、という道理を言っているわけである。
もっと庶民は、 "そもそも" という "原点回帰的" 発想に振舞ってみなければいけないのだろうと思っている。
"大人" というのは、ありそうなことに対しては目くじらを立てずに、鷹揚に振舞うものだ......、と、誰が決めたか知らないが、能天気なことになっているのが実情か。
そんなことだから、 "大人" たちは、得体の知れない "鵺(ぬえ)的存在" だと子どもたちから軽蔑されるのであろう。もうすぐ "成人式" という国民的行事を迎えるわけだが、それが、 "ウェルカム、ヌエ!" の "通過儀礼" 式とならないことを祈りたいものである。
元々、 "政治" というものが、 "手段化" に "手段化" を重ねる手法で出来上がっていることは、誰の眼から見ても明らかであろう。理想や理念や、マニフェストなどの訴求力だけで現実の "政治" が動かされているとは、どんなナイーブな者でも考えはしないはずだ。
まあ、 "無償" の "ボランタリーな運動" で "手段化" が遂行されるケースも無いではない(c.f. オバマ支持運動の一部?)が、通常は "手段化" 遂行= "有償" = "カネ(まみれ)" が実態であることは周知の事実となっている。 "政治資金規制法" なんぞが存在するだけでなく、まるでこの網に "ネズミ捕り" さながらに引っかかるのが政治屋たちの実態だとすれば、何をかいわんやであろう。
それにしても、 "政権交代" があった後だというのに、 "政治" の "手段化" 手法的側面は、その醜さを露呈し続けているようだ。
<民主党政権からは「ときめき」がいっこうに伝わってこない。>( 芸術で日本に「ときめき」を!/財部誠一の「ビジネス立体思考」/nikkei BP net )というコラムが眼にとまった。
"政権交代" を実現させた国民の多くは、言ってみれば、腐り切った政治の実情に、この「ときめき」を望んだのではなかったかと思う。
確かに、 "手段化" 手法の権化のような "官僚(機構)主導型" が、 "政治主導型" へと移行する "序幕!" だけを見せてもらうには見せてもらった(ex.「事業仕分け」)。
しかし、 "舞台裏" や劇場周辺では、"カネ(まみれ)" の実態は透けて見えてくるし、
"手段化" 手法のもうひとつの権化である "数合わせ" のための、本末転倒気味とさえ感じさせる "参院選" 対策の騒々しい物音が響き渡っている。観客は始まったばかりの "新劇" をおちおちと観ていられない雰囲気ではないか......。
小沢一郎幹事長による "手段主義的政治" (instrumentalism!)のビジョンもわかることはわかる。ここで、時代から見放されつつある自民党勢力を根絶やしにしておかなければ、再び "ゾンビ" のごとく息を吹き返すかもしれないという懸念......。
しかし、それ(自民党の復活)は無いと思うし、それよりももっと懸念すべきなのは、政治の舞台には、パチンコ屋の "新装開店" さながらに、常に、 "ルーキーもどき" が顔を出すということ(政界再編)である。つまり、 "権力攻防戦" はエンドレスに違いなかろう、という点なのである。
そこまで考えると、事態は、参院選での "過半数獲得" ということで決着することにはならないのではなかろうか。まして、ここで、 "数の論理" という "手段主義的政治" を、まるで馬脚を現すかのごとく披露してしまうならば、国民感情は著しく傷つけられるような気がしてならない。
何をも "手段" 視しない政治、とりわけ有権者国民を権力攻防戦の "手段" とは決してしない政治が王道であるはずだろう...... (2010.01.08)
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