今朝のウォーキングで何となく "気づかされたこと" があった。
春まだなお遠く、ではあっても、刻一刻と春へと滑り始めた感のある今日この頃である。そんな気配が再確認させられるような光景に出会った。
ひとつは、ウォーキング・コースの遊歩道脇の植樹である "山茶花(さざんか)" が、来年に備えて一斉に "剪定" されている光景であった。
北風吹き荒ぶ冬の間中、紅色の花を気前良く咲かせることで見る者を寒さから遠ざけてくれた "山茶花" であったが、それぞれの木々は一通りの開花を終えたかの様子となっていた。
ということだからなのだろうと思うが、市委託と思しき専門業者が、大胆な剪定作業を行っていたのである。植木の選定時期は、確か "開花終了時" だったかと思う。来年また、真冬の寒さの中を行き交う人たちの目を癒すためには、この時季でのタイムリーな "剪定" が必要だということなのであろうか。
背丈の切り詰めもなされた木々の姿は幾分哀れでもあったが、こうした大胆な "剪定" が翌年の旺盛な開花という "若返り" をもたらすものなのかもしれないと思えた。
春まだなお遠く、ではあっても、刻一刻と春へと滑り始めた感のある今日この頃である。そんな気配が再確認させられるような光景に出会った。
ひとつは、ウォーキング・コースの遊歩道脇の植樹である "山茶花(さざんか)" が、来年に備えて一斉に "剪定" されている光景であった。
北風吹き荒ぶ冬の間中、紅色の花を気前良く咲かせることで見る者を寒さから遠ざけてくれた "山茶花" であったが、それぞれの木々は一通りの開花を終えたかの様子となっていた。
ということだからなのだろうと思うが、市委託と思しき専門業者が、大胆な剪定作業を行っていたのである。植木の選定時期は、確か "開花終了時" だったかと思う。来年また、真冬の寒さの中を行き交う人たちの目を癒すためには、この時季でのタイムリーな "剪定" が必要だということなのであろうか。
背丈の切り詰めもなされた木々の姿は幾分哀れでもあったが、こうした大胆な "剪定" が翌年の旺盛な開花という "若返り" をもたらすものなのかもしれないと思えた。
もうひとつの光景は、もう何度も目にしている "可愛い光景" である。今日は、朝から穏やかな陽射しに恵まれていたこともあり、近くの保育園の園児たちが "園外歩行" とでも言うのだろうか、二人づつ手を繋いで列を作ってウォーキングをしていたのである。
遠くからその行列を見つけただけで、自分なぞは思わず顔がほころんでしまうというありさまである。お仕着せのカラー・キャップをしっかりとかぶり、遠くから見ると足はあるのかしら? と思えるほどの "寸詰まり" の格好でちょこちょこと歩むのが何とも言えない。
通り過ぎて行く子たちのあどけない顔つきを覗くと、これまたいずれも屈託のない表情であり、何とも "年寄りキラー" とでもいう愛らしさがこぼれ落ちんばかりであった。
おまけに、通り過ぎた時、後ろの方からその子たちの声が聞こえてきたのである。
「今、コワーイおじさんが歩いてたね。きゃっきゃっきゃっきゃっ」
多少の違和感は走ったものの、これまた吹き出さんばかりになってしまった。
どうも、昨今は、気分が "屈(かが)みがち" となっていそうだ、と思えた。下手をすれば、 "前向き" にあらず "後ろ向き" でさえありそうだと......。
この間、 "リアルタイム" という言葉にこだわっているが、ここでも、言葉の "影" の部分にことさら目を向けていそうでもあった。
しかし、翌年の旺盛な開花を意図する "山茶花の剪定" といい、どんな将来が来ようとも "行くっきゃない!" とばかりに笑い飛ばす幼児たちといい、 "来るべき未来" にまさに前屈(かが)みとなっているそんな光景もしっかりと視野に入れなければいけないのではないか......。
"リアルタイム" という視点が、 "何かの一時点" に向けられたキャッチアップ(?)的な姿勢の一表現だとするならば、 "その一時点" を、捉えどころのない疎遠な時代趨勢の先端なんぞと見なさずに、身近にある "好ましきものの明日の姿" などに絞り込んでも良さそうではないか、と。
季節ごとにやってくる自然風景の表情でもよかろうし、幼い者たちの明日の姿でもいい。そうした "愛しい時の流れ" と "同期" するというような "リアルタイム性" だって十分に大切なことではないのか、と。
そう言えば、かつての日本人たちにとっては、季節の微妙な変化とその時季こそが、日々の生活やそこでの感覚が "同期" を合わせる基準であり、それらとの関係で "リアルタイム性" が強く意識されたのではなかったかと思える。季節と "同期" を合わせることが、何よりも "今・現在" を充足させられると感じたように思われる。
そして、現代人は、どこまで行っても終わらない "エンドレスの時代事象" と "同期" を合わせること、つまり "リアルタイム性" の追っかけでしか "今・現在" を捉えられなくなっているとでも言うべきなのだろうか......。
どうも、以前に書いた<〈コンサマトリー〉(現時充足的)な>生き方(「〈コンサマトリー〉時間感覚と、〈インストゥルメンタル〉時間感覚 ......」 2010.01.04)の問題との関連付けが必要になりそうである。
〈コンサマトリー〉な時間感覚が成立し得ないからこそ、 "リアルタイム性" の追っかけというかたちで、 "今・現在" に対する "擬似充足" を追求せざるを得ない......。
"リアルタイム性" の問題の核心は、時間経過がどうこうという議論の地平にあるのではなくて、人や社会・世界が "時間の流れ" をどう考え、扱おうとしているか(= "時間観" や "時間感覚" )に強く関わっていそうな気がしてくるのだ...... (2010.01.29)
遠くからその行列を見つけただけで、自分なぞは思わず顔がほころんでしまうというありさまである。お仕着せのカラー・キャップをしっかりとかぶり、遠くから見ると足はあるのかしら? と思えるほどの "寸詰まり" の格好でちょこちょこと歩むのが何とも言えない。
通り過ぎて行く子たちのあどけない顔つきを覗くと、これまたいずれも屈託のない表情であり、何とも "年寄りキラー" とでもいう愛らしさがこぼれ落ちんばかりであった。
おまけに、通り過ぎた時、後ろの方からその子たちの声が聞こえてきたのである。
「今、コワーイおじさんが歩いてたね。きゃっきゃっきゃっきゃっ」
多少の違和感は走ったものの、これまた吹き出さんばかりになってしまった。
どうも、昨今は、気分が "屈(かが)みがち" となっていそうだ、と思えた。下手をすれば、 "前向き" にあらず "後ろ向き" でさえありそうだと......。
この間、 "リアルタイム" という言葉にこだわっているが、ここでも、言葉の "影" の部分にことさら目を向けていそうでもあった。
しかし、翌年の旺盛な開花を意図する "山茶花の剪定" といい、どんな将来が来ようとも "行くっきゃない!" とばかりに笑い飛ばす幼児たちといい、 "来るべき未来" にまさに前屈(かが)みとなっているそんな光景もしっかりと視野に入れなければいけないのではないか......。
"リアルタイム" という視点が、 "何かの一時点" に向けられたキャッチアップ(?)的な姿勢の一表現だとするならば、 "その一時点" を、捉えどころのない疎遠な時代趨勢の先端なんぞと見なさずに、身近にある "好ましきものの明日の姿" などに絞り込んでも良さそうではないか、と。
季節ごとにやってくる自然風景の表情でもよかろうし、幼い者たちの明日の姿でもいい。そうした "愛しい時の流れ" と "同期" するというような "リアルタイム性" だって十分に大切なことではないのか、と。
そう言えば、かつての日本人たちにとっては、季節の微妙な変化とその時季こそが、日々の生活やそこでの感覚が "同期" を合わせる基準であり、それらとの関係で "リアルタイム性" が強く意識されたのではなかったかと思える。季節と "同期" を合わせることが、何よりも "今・現在" を充足させられると感じたように思われる。
そして、現代人は、どこまで行っても終わらない "エンドレスの時代事象" と "同期" を合わせること、つまり "リアルタイム性" の追っかけでしか "今・現在" を捉えられなくなっているとでも言うべきなのだろうか......。
どうも、以前に書いた<〈コンサマトリー〉(現時充足的)な>生き方(「〈コンサマトリー〉時間感覚と、〈インストゥルメンタル〉時間感覚 ......」 2010.01.04)の問題との関連付けが必要になりそうである。
〈コンサマトリー〉な時間感覚が成立し得ないからこそ、 "リアルタイム性" の追っかけというかたちで、 "今・現在" に対する "擬似充足" を追求せざるを得ない......。
"リアルタイム性" の問題の核心は、時間経過がどうこうという議論の地平にあるのではなくて、人や社会・世界が "時間の流れ" をどう考え、扱おうとしているか(= "時間観" や "時間感覚" )に強く関わっていそうな気がしてくるのだ...... (2010.01.29)
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