あらゆる組織が "財政難!" に陥っている現在、国と言わず地方と言わずあらゆるレベルの経営組織で、 "次年度予算" の編成が "すったもんだ" の騒ぎとなっている。
そんな中で飛び交うのが、「ゼロ・シーリング」や「ゼロ・ベース」という用語であろう。泣く子も黙る(?)「事業仕分け」という言葉もあるが......。
「ゼロ・シーリング」とは、予算編成において歳出規模の抑制を図るために、予算要求について限度枠を設ける「シーリング方式」のうち、概算要求を対前年度同額に抑える(=増加額ゼロ)という意味だ。
また、「ゼロ・ベース」というのは、前年度の実績を考慮しないで、すべての予算項目をゼロから査定していく予算管理方式だとされている。
いずれも、 "従来通りには行かないよ!" という緊縮姿勢が基本となっているわけだが、前者の「ゼロ・シーリング」は、厳しいようではあっても、前年度の実績額がキープされての話だからまだ "甘い" と思える。
それに対して、「ゼロ・ベース」の方は、まさに "ガラガラポン" とでもいうようなハードボイルドな厳しさが伴い、「事業仕分け」というのはこの典型なのかもしれぬ。
そんな中で飛び交うのが、「ゼロ・シーリング」や「ゼロ・ベース」という用語であろう。泣く子も黙る(?)「事業仕分け」という言葉もあるが......。
「ゼロ・シーリング」とは、予算編成において歳出規模の抑制を図るために、予算要求について限度枠を設ける「シーリング方式」のうち、概算要求を対前年度同額に抑える(=増加額ゼロ)という意味だ。
また、「ゼロ・ベース」というのは、前年度の実績を考慮しないで、すべての予算項目をゼロから査定していく予算管理方式だとされている。
いずれも、 "従来通りには行かないよ!" という緊縮姿勢が基本となっているわけだが、前者の「ゼロ・シーリング」は、厳しいようではあっても、前年度の実績額がキープされての話だからまだ "甘い" と思える。
それに対して、「ゼロ・ベース」の方は、まさに "ガラガラポン" とでもいうようなハードボイルドな厳しさが伴い、「事業仕分け」というのはこの典型なのかもしれぬ。
ところで、個々人やその家庭も、小規模とはいえ経営組織であることに変わりはなかろう。こちらの方は、 "所得目減り" が著しい昨今、とてもじゃないけれど「ゼロ・シーリング」で前年度並みという楽観は許されていない。
ハードボイルドにというよりも、半分投げやりでとも見える "ガラガラポン" で、わびしい「ゼロ・ベース」算段をせざるを得ないのが実情と言うべきか......。
したがって、国などの公共財政にあっては、庶民のこの実情に即した「ゼロ・ベース」予算管理の徹底が、「当たり前田のクラッカー!」(のセリフで一世風靡した藤田まことさんも亡くなられた......)と言えそうである。
こう書くと、一見もっともらしい "屁理屈" を言ってはばからない者たちも出てくる。「萎縮した予算では経済成長はままならない」とか、と。
しかし、これが "屁理屈" なのは、 "小遣い" を削られた家庭の亭主が、
「 "小遣い" が少ないと外での男の行動に支障を来たす......」とかという、意味不明な抵抗をするのと五十歩百歩のようだ。官が振舞うカネ(公共投資)の額で経済を動かそうとするのではなく、官による意味不明な "規制" などを緩和したり、官ならではの "知恵を絞った政策" でコストパフォーマンスを高めるべきだと言うのが正しいようだ。
もはや、 "右肩上がり" の経済成長は望むべくもないわけなのだから、すべからく「ゼロ・ベース」方式に舵を切るのが妥当かと思う。
また、この「ゼロ・ベース」方式という視点やスタンスは、事、予算編成の原理に限らず、どうも現代環境のさまざまな領域に深く浸透しつつ、人々の行動を方向づけ始めている気配も見過ごせない。
つまり、従来からの流れ(ヒストリー)で、根拠が薄弱にもかかわらず "手がつけられないで来た領域" 、それを "聖域" と呼ぶのだろうが、それらが、批判を浴びるというよりも "黙殺(パス)" され始めている風潮をあちこちで感じるのである。
この辺の事情については、日を改めてまたこだわってみたい...... (2010.02.20)
ハードボイルドにというよりも、半分投げやりでとも見える "ガラガラポン" で、わびしい「ゼロ・ベース」算段をせざるを得ないのが実情と言うべきか......。
したがって、国などの公共財政にあっては、庶民のこの実情に即した「ゼロ・ベース」予算管理の徹底が、「当たり前田のクラッカー!」(のセリフで一世風靡した藤田まことさんも亡くなられた......)と言えそうである。
こう書くと、一見もっともらしい "屁理屈" を言ってはばからない者たちも出てくる。「萎縮した予算では経済成長はままならない」とか、と。
しかし、これが "屁理屈" なのは、 "小遣い" を削られた家庭の亭主が、
「 "小遣い" が少ないと外での男の行動に支障を来たす......」とかという、意味不明な抵抗をするのと五十歩百歩のようだ。官が振舞うカネ(公共投資)の額で経済を動かそうとするのではなく、官による意味不明な "規制" などを緩和したり、官ならではの "知恵を絞った政策" でコストパフォーマンスを高めるべきだと言うのが正しいようだ。
もはや、 "右肩上がり" の経済成長は望むべくもないわけなのだから、すべからく「ゼロ・ベース」方式に舵を切るのが妥当かと思う。
また、この「ゼロ・ベース」方式という視点やスタンスは、事、予算編成の原理に限らず、どうも現代環境のさまざまな領域に深く浸透しつつ、人々の行動を方向づけ始めている気配も見過ごせない。
つまり、従来からの流れ(ヒストリー)で、根拠が薄弱にもかかわらず "手がつけられないで来た領域" 、それを "聖域" と呼ぶのだろうが、それらが、批判を浴びるというよりも "黙殺(パス)" され始めている風潮をあちこちで感じるのである。
この辺の事情については、日を改めてまたこだわってみたい...... (2010.02.20)
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