昨日の "琵琶湖マラソン" は、先日の東京マラソンの時と同様に小雨が降り肌寒い天候の中での実施であった。アフリカ勢のランナーたちはさぞかし辛かったのでは、と想像したりしていた。
そんな中で、昨日のTV中継は、ちょっと変わった楽しみ方をしてみた。
実は、アナウンサーや解説者の "音声" が無いと、結構、 "新鮮な臨場感" があってこれもまたいいものだ、と思ったのである。というのは、たまたま、 "TVの設定" で "主音" のみとし、解説などが流される "副音" を消していたのだった。以前に行った録画の時の設定を引き摺っていたのだ。
すると、当たり前の話だが、 "主音" のみだと聞こえてくるのは、競技場やコース周辺で拾われた音のみであり、場内放送、アスリートたちを追うカメラマンを乗せたクルマの音、そして沿道で応援するファンたちの声援、といった "環境音" だけがのどかに聞こえてくるのだ。まるで、自身が競技場や沿道にぽつねんと立って観戦しているような、実に "自然なリアリティ" を感じたのである。
確かに、ゼッケンを付けたランナーたちがどんな選手なのかというような事情はわかりにくい、というか、わからない。しかし、そんな事情を知ること以上に、ランナーたちの走行状況や表情が、むしろよく読み取れるような気もしたものである。解説者などの音声情報が無い分、自分なりに想像力を駆使するからであろうか。
また、周囲の "ステレオ環境音" が、これまたリアルに聞こえてきたりして、結構 "味なもの" であった。さしずめ、日頃、調味料だらけで食べていた野菜を、生のまま直に口にして、食材自体の新鮮な食感をじっくり味わっているような気さえした。
そんな中で、昨日のTV中継は、ちょっと変わった楽しみ方をしてみた。
実は、アナウンサーや解説者の "音声" が無いと、結構、 "新鮮な臨場感" があってこれもまたいいものだ、と思ったのである。というのは、たまたま、 "TVの設定" で "主音" のみとし、解説などが流される "副音" を消していたのだった。以前に行った録画の時の設定を引き摺っていたのだ。
すると、当たり前の話だが、 "主音" のみだと聞こえてくるのは、競技場やコース周辺で拾われた音のみであり、場内放送、アスリートたちを追うカメラマンを乗せたクルマの音、そして沿道で応援するファンたちの声援、といった "環境音" だけがのどかに聞こえてくるのだ。まるで、自身が競技場や沿道にぽつねんと立って観戦しているような、実に "自然なリアリティ" を感じたのである。
確かに、ゼッケンを付けたランナーたちがどんな選手なのかというような事情はわかりにくい、というか、わからない。しかし、そんな事情を知ること以上に、ランナーたちの走行状況や表情が、むしろよく読み取れるような気もしたものである。解説者などの音声情報が無い分、自分なりに想像力を駆使するからであろうか。
また、周囲の "ステレオ環境音" が、これまたリアルに聞こえてきたりして、結構 "味なもの" であった。さしずめ、日頃、調味料だらけで食べていた野菜を、生のまま直に口にして、食材自体の新鮮な食感をじっくり味わっているような気さえした。
とりわけ、沿道などで声援を送るその音声が妙に興味深かった。子どもたちのあどけない声援がとくに印象的であった。
なかでも、競技場でマイクが拾い続けた、とある子どもの声援は、最初のスタート時から最後のゴールの時までしっかりと良く聞こえていた。「がんばれー」という一言を繰り返すだけではあったが、よくも2時間以上にも渡って飽きずに続けていたと、その健気さに感心さえさせられた。関係者のお子さんだったのかもしれないが、子ども心に、選手たちはよくがんばっていると感じていたのであろうか。薄着のユニフォームだけで、雨が降る寒空の下を走っている選手たちは "えらい" と思ったとしても無理はなかろう。
こんな "環境音" だけのマラソン中継を観ていて感じたこと、それは、やはりわれわれは、解釈尽くめの情報のその "情報過多" のメディアに慣れ過ぎているということ。それらが "嘘" だとまでは思わない。だが、 "事実" はひょっとしたら "別のところ" に置き去りにされている可能性は否めないのかもしれない、と思った。
ふと、自分は幼い頃、5、6歳ごろのことを思い起こしていた。文脈までは覚えていない。叔父の家で、叔父が幼い自分や従兄弟たちに向かって、自身の戦争体験の話をしていた時のこと。
「そりゃ恐かったなんてもんじゃない。爆発音が響くし、弾がビュンビュンと流れ飛ぶんだから。それに、 "映画やテレビみたいに音楽とかが流れるなんてこともないんだからね" 」
なぜだか、その言葉が記憶に残り続けている。人間染みた "脚色、演出、効果音" などがまるで無いというのが、それが "事実" であり、 "現実" なのだ、という意味として受けとめて来たのかもしれない...... (2010.03.08)
なかでも、競技場でマイクが拾い続けた、とある子どもの声援は、最初のスタート時から最後のゴールの時までしっかりと良く聞こえていた。「がんばれー」という一言を繰り返すだけではあったが、よくも2時間以上にも渡って飽きずに続けていたと、その健気さに感心さえさせられた。関係者のお子さんだったのかもしれないが、子ども心に、選手たちはよくがんばっていると感じていたのであろうか。薄着のユニフォームだけで、雨が降る寒空の下を走っている選手たちは "えらい" と思ったとしても無理はなかろう。
こんな "環境音" だけのマラソン中継を観ていて感じたこと、それは、やはりわれわれは、解釈尽くめの情報のその "情報過多" のメディアに慣れ過ぎているということ。それらが "嘘" だとまでは思わない。だが、 "事実" はひょっとしたら "別のところ" に置き去りにされている可能性は否めないのかもしれない、と思った。
ふと、自分は幼い頃、5、6歳ごろのことを思い起こしていた。文脈までは覚えていない。叔父の家で、叔父が幼い自分や従兄弟たちに向かって、自身の戦争体験の話をしていた時のこと。
「そりゃ恐かったなんてもんじゃない。爆発音が響くし、弾がビュンビュンと流れ飛ぶんだから。それに、 "映画やテレビみたいに音楽とかが流れるなんてこともないんだからね" 」
なぜだか、その言葉が記憶に残り続けている。人間染みた "脚色、演出、効果音" などがまるで無いというのが、それが "事実" であり、 "現実" なのだ、という意味として受けとめて来たのかもしれない...... (2010.03.08)
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