この間、 "所属(感)" について関心を外すわけには行かない心境であり、その周辺の事柄について二、三言及してきた。
「当たり障りの無い、拘束感の無い "所属" 、それが現代ならではの流儀?」(2010.03.31)
「東京・町田に "所属" (?)しながら、 "沖縄の興南" に傾くとは?」(2010.04.03)
この "所属(感)" の "ありよう" が、やはり、現在のこの日本社会の現状に深くかかわっていると感ぜざるを得なかったからかもしれない。
時代環境の実態というものが、 "個々人" と "集団・組織・社会" とのかかわり方や関係のあり方に凝縮されていると見るならば、それは、 "個々人" による "集団・組織・社会" への "所属(感)" の "ありよう" に表現されているはずであろう。
ちなみに、われわれは自己紹介をする時、サラリーマンであれば "何々会社の誰々です" とかと、 "所属" を前置きにして紹介する。それが一般的であると同時に、それでお互いがわかり合ったような気にもなる。さしずめ、時代劇の昔ならば、 "出身" の村などの地名プラス名前をもって "通り名" としたことと共通しているのだろう。
だが、時代の変化は、猛烈な勢いで "個々人" と "集団・組織・社会" とのかかわり方、 "所属(感)" の "ありよう" を塗り替える歴史でもあったわけだ。
それは一方で、閉鎖的な "集団・組織・社会" が抱える "非効率性" を打破したり、それらに "所属" し、 "拘束" されていた "個々人" を流動化する自由へと解放するプロセスでもあったと言える。都市化現象という都市への "民族大移動" などの近代化の流れを思い起こせばわかり易い。
しかし、今、残念ながら、この趨勢の辿り着いているのは、寂し過ぎる "無縁社会" や "無縁死" の広がる社会だと捉えられている。一体、どこで何が "狂って" しまったと言うのであろうか? 深刻な "少子高齢化" 問題もそうであるが、時代社会に関するマクロなグランド・デザインの欠落を今さら嘆いても始まらないが、想像力と予知の範囲内であったであろう問題が、 "見事に" 黙殺されて来たという政治貧困の歴史が先ずは悔やまれて良さそうだ。
「無縁社会」の衝撃 / 追跡! AtoZ /NHK 2010.04.03 は、この間 "追跡" されてきた「無縁社会」問題の深刻さを改めて問う貴重な番組であった。
下記の通り、この現象は決して部分的な現象ではなく、まさに社会全体に広がり尽くした "社会問題" だと言わざるを得ない。
平凡に安心に生きるという、人間の "基本的尊厳" を脅かすところにまで這い上がってしまった問題現象であることを思えば、この悲劇の周辺には、 "関連する悲劇" がまだまだベットリと付着していて、それらをも含めると空恐ろしく感じる。健全な社会を蝕むこうした "社会問題" を等閑視して放置し続けるならば、きっと、現行、将来の社会は、その修復のために "膨大なコスト" を負担することになるのではなかろうか......。
< 1月末に放送したNHKスペシャル「無縁社会」。放送後、"無縁"な人たちの間で、大きな反響を呼んでいる。NHKに届いた反響は1500件を超えた。その多くが、「無縁な自分の将来が不安だ」と訴える内容だった。とりわけインターネット上では、「祭り」といわれる異常現象が頻発。視聴者が番組を見ながらネット上に書き込みをするツイッター、掲示板、ブログで数十万を超える異常な頻度で書き込みがあった。
特に目立ったのは30~40代の書き込みだ。「ネットだけが"つながり"だと信じてきたのに、それだけでは救われないのではないか」、「結婚をはじめて考えるようになった」など、働き盛りの世代が自分と社会とのつながりを不安視する記述が目立つ。
単身高齢者が"無縁"で暮らす高齢者施設では、共同墓地の建設に着手するなど、生前から死後の準備をする動きが活発化している。"無縁ビジネス"ともいえる新たなビジネスは共同墓建設にとどまらず、保証人代行サービス、見守り代行サービス、話し相手サービスなど、様々な分野に広がっている。無縁社会と向き合おうとする視聴者ひとりひとりの生き様をルポするとともに、社会と個人のつながりが薄れつつある日本社会で必要とされる「絆」の新しい形とは何か、追跡する。 >(同上サイトより)
<「ネットだけが"つながり"だと信じてきたのに、それだけでは救われないのではないか」>というコメントは、正鵠を射ていると思えてならない。貴重なツールには、 "使い方と使い時" とが確実に備わっているはずである...... (2010.04.05)
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