日常生活にも、 "危機" はしたたかに潜んでいる。そんな実感を呼び覚まされてしまった。
今朝のウォーキングの時のことである。穏やかな田園光景を見渡す、そんなコースなのだが、その傍らに、静かな様子ではあるが尋常ではない、そんな光景を見出してしまった。
二階建てアパートの端の部屋が火災を起こしたその跡なのである。一階部分の部屋はブルーシートで覆い隠されていたが、覗き見える内部は焼け焦げている気配であった。昨日の夕刻あるいは夜半の出来事かと推測された。
二階へと繋がる白い壁面は、焼け焦げてはいなかったものの、惨たらしくも煤で黒くなっていた。激しい炎と煙で舐められた跡だと見えた。よくはわからないが、一階の角の部屋が火元で、その火が直ぐ上の部屋や隣の部屋へと延焼するのがかろうじて食い止められたというような光景であった。
火元と思しき部屋にはどんな住人が暮らしていたのであろうか? 6畳位の居間に台所やトイレ・風呂といったワンKサイズの部屋のようなので、単身者が暮らしていたのかもしれない。若い人なのか、ご老人なのか? しかし、何が原因での出火なのだろうか?
怪我人はなかったのであろうか? それが何よりの心配であったが、怪我のほかにも出火に伴う被害は、個人で贖うには決して小さくはなさそうに思えるのだった。
多分、内部の家財はほとんど使い物にならなくなっていそうだし、まだ新しい建物を修復弁済するのは、いくら火災保険で賄われるとしても大変な事になりそうだ。他人事ではあっても、現状復帰に向けたあれこれの手立てを想像すると、一たび失火してしまうとまさに大事になってしまう......、と鎮痛な気分にさせられてしまった。
何が原因であったかは知らないが、 "ちょっとした不注意" が原因となってしまったことは間違いなさそうだ。 "淡々とした" 日常生活は、何も起こらない分には "淡々としている" が、 "危機" への "クラック(ひび割れ)" が存在しないわけではない。まるで、人間に慣れ切っている猛獣が、足や尻尾を踏まれて予想外の暴れ方に転じるようなふうであろうか。そして、その一瞬によって、 "淡々とした" 日常生活は、悲劇的な場面へと突入してしまう......。
そう言えば、今でもふと思い起こしては言葉を失うのは、先日起きたクルマの中で4人の幼児たちが焼死した事故である。その子たちがどんなに痛くて、苦しい時間を背負うことになったか......、そして事実が判明した時の親御さんたちの想像を絶する苦痛はいかばかりであったことか......。
こうした事故にしても、因果関係的に原因を辿れば、 "ちょっとした不注意" 以外の何物でもなかったはずだ。しかし、もし時間を遡ることが可能であるならば、その "ちょっとした事" を取り消すためには "全財産を投げ打つ" ことをも拒まない......、という心理に誰しもがなるはずである。
PCを使い慣れた現代のわれわれは、ある意味で "エラー" への妙な "免疫性" が培われてしまっていそうだ。PCやIT機器上での "エラー" の大半は、 "戻る" 機能や "デリート" 機能によって何気なく対処できてしまうからだ。
日常行動を運ぶに当たっては、 "決断" はもとより、"判断" や "ちょっとした注意" さえもさほど必要としないのが通例でありそうだ。考えてみると、こうした状況に慣れ親しんでしまうのは空恐ろしいことなのかもしれない。
昔の人たちは、人前で話す場合、言い損じた際に、 "もとい" と言いながら "言い繕う" 言葉を繋げていたようだ。さしずめ、PC上での "バックスペース・キー" か "エスケープ・キー" の機能に相当するのだろうか。
そんな昔の人たちが留意したことわざ、「注意一瞬、怪我一生」という、言ってみれば実に緊張感に溢れた表現は、決して "死語" となっているどころか、今でも脈々とアクティブなのだと思われてならない。
こんな事を書き終えてみたら、以下のようなニュース報道が目に飛び込んできた。
「家庭用製品の誤使用・不注意、死亡228人 過去3年間」
「ポーランド大統領搭乗機が着陸失敗 生存者なしの情報」
"悲劇" というものは、一瞬の "スリット(slit)" に喰いつくのか...... (2010.04.10)
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