毎朝のウォーキングコースの途中に、その境内に見事な桜の木々がそびえるお寺がある。現在は、姿の良い桜の老木が二本あるだけとなった。だが、数年前までは境内の隅々に所狭しと桜の木々が生い茂る絶景を披露し続けていた。
満開時には、中空全体が淡いピンク色の雲で覆われ神秘的な光景となった。そして、やがて散る無数の桜の花びらは、決して大袈裟ではなく "花びらで敷き詰められた絨毯" という風情をかたち作ったりもした。
しかし、現在は、お堂に寄り添うように立つ二本だけである。どうしてこうなったのかを下世話に想像することがないわけではないが、それはおく。
桜の木々、今はたとえ二本とは言えども、永くこの境内の移り行きを眺め続けて年月を重ねて来たその老木たちは、今年も観る者たちの感嘆を誘う開花を披露してくれたものだ。
また今年は、五月雨的に訪れた異常寒気のせいもあってか、見応えのある満開時は比較的長かったかもしれない。
その満開を、今日のような春日和にこそ観たかったと思いつつ、境内に近づいてみると、葉桜が影を落とした黒い地面には、桜の花びらが薄っすらと広がっていた。いくらなんでももう桜の時季は過ぎたということか......、と散った桜を惜しむ気分になっていた。
とその時、どこからとなく鶯の鳴き声が聞こえてきたのである。ホーホケキョ、という典型的な鳴き声だった。しばらく間を置き、また、ホーホケキョ、と鳴く。
耳を傾けているうちに、その鶯は、何かを囁(ささや)いてでもいるかのように感じられた。今、今、今......、何も終わっていない、桜も散ってはいない......、とでも言うような意味のことを繰り返して囁いているように......。
ふと、自然に脳裏を過ぎる言葉があった。
「花びらは散っても花は散らない」(僧侶・金子 大榮 「金子大栄 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」)
仏教思想の根幹である「不生不滅(ふしょうふめつ/生死のこだわりを越える)」をわかりやすく説いた言葉だと言われている。
そうかもしれないなぁ、「花びらは散っても花は散らない」と言い切る、そんな洞察と強い感性とが不可欠なのかも......。鳩山首相もその気概を...... (2010.04.21)
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