同じような "異常な事件" が昨日、今日と二日続いてしまった。
ともすれば "異常な事件" に "慣れっこ" になっているのかもしれない "異常な時代" のわれわれにあっては、 "異常さ" を "異常さ" として感知することすら、うっかり "パス(黙殺)" してしまいそうではないか。
もちろんこの種の事件自体が "恐ろしいこと" なのであるが、それらに "応分の関心" を払えなくなってしまっているかもしれないわれわれ自身の、その "感受性の歪み" もまた恐ろしい現象だと気づかされる。
次から次へと "矢継ぎ早" で重大ニュースが報じられたり、また "異常な事件" についても、これでもかこれでもかと言わぬばかりにその "異常さ" が亢進される昨今であってみれば、われわれの "感受性" が磨耗してマヒしないでもない......、という理屈もあるにはある。
しかし、いつかどこかでこの "感受性の歪み" を正しておかなければとんでもなく恐ろしい事態を迎えることになってしまいそうだ。
二つの "異常な事件" の一つとは以下のとおりである。
< 授業中の教室で起きた、突然の出来事だった。横浜市港北区の私立清心女子高校で15日昼過ぎ、1年生の女子生徒(15)が同級生(15)を刺し、殺人未遂の疑いで神奈川県警に逮捕された。活発だったという被害者に、「おとなしい」と見られていた加害生徒。対照的だったという2人に何があったのか。
同校は東急東横線白楽駅の近くで、全校生徒は約350人。事件時の教室には教諭と生徒35人がいたという。
「痛い!」。4時限目の国語の授業中、教室の後方から突然、叫び声が上がった。
すぐ前の席の生徒が気づき、ざわめきは教室内に広がる。黒板に向かっていた女性教諭が振り返ると、刺した生徒は両手を腹の前で握るような格好をしていた。
被害者の生徒は腹に刃物が刺さったまま、病院に運ばれた。「刺された本人は何があったかわからなかったのでは」(学校関係者)。教室に残された生徒たちは、ぼうぜんとしていたという。
刺した生徒は担任教諭に連れられて応接室に移動。しばらく警察官に話を聴かれた後、伴われて署に向かったという。
「とっても明るく、元気で活発な生徒です」。記者会見した同校の永野多嘉子校長は、被害者の生徒をそう表現した。しかし、逮捕された生徒については「私は話したこともなく、知らなかった」。そして「(担任教諭は)口数が少ないと言っていました」とだけ話した。
永野校長によると、2人は別の中学の出身。新入生は入学直後は出席番号順で席を決め、逮捕された生徒と被害者は隣同士になった。学校行事が一段落した5月下旬に席替えがあったが、2人は偶然、再び隣同士になったという。
同校は事件を受けて午後からの授業をすべて取りやめ、生徒たちは無言のまま帰宅した。16日は休校とし、保護者への説明会を開くという。>(「痛い!」 授業中、突然叫び声 横浜の同級生刺傷/asahi.com/2010 年6月16日0時33分)
そしてまた今日、同じような事件の二つ目が起こされた。
< 17日午前8時ごろ、山口県田布施町の県立田布施農工高校(古川博之校長)の教室で、1年生の男子生徒(15)が、同級生の女子生徒(15)の右肩付近数カ所を文化包丁(刃渡り約20センチ)で刺した。男子生徒は自分で110番通報し、駆けつけた柳井署員に銃刀法違反と傷害の疑いで現行犯逮捕された。女子生徒のけがは軽いという。
県警によると、男子生徒は、教室の窓際のいすに座っていた女子生徒の右肩から右脇付近を、背後から数回刺したという。女子生徒は出血もほとんどなく、けがは軽いという。当時は授業が始まる前で、教室には2人しかいなかった。
男子生徒は110番通報した際、「家から持ってきた包丁で刺した」と話したという。署員がパトカーで駆けつけると、包丁の入ったバッグを持って、学校の玄関から出て来て犯行を認めた。調べに対し、「いらいらしていた。殺すつもりはなかった」と話しているという。
高校によると、2人は同じクラスだが、トラブルなどは確認されていないという。事件後、全校生徒を体育館に集めて概要を説明し、午前中までに全員帰宅させた。古川校長は「学校管理下でこのような事件が起こり大変遺憾。重く受け止めている。全力で再発防止に努める」とコメントを出した。>(高1男子、教室で女子同級生を刺す 傷害などの容疑/asahi.com/2010 年6月17日12時1分)
"思春期" の未成年によるこうした事件が発生すると、現代社会のいろいろな社会的矛盾が原因視されることになったりする。さまざまな社会的矛盾が "思春期" の少年少女たちの心を蝕んでいる......、という分析や解説のことである。
これらに関しては、オールド世代が自分の若かった頃を思い出し、基準にして安直に図式的な言い方をすることはあまり効果的ではなさそうである。それほどに、現代という "異常な時代" がその内部で醗酵させている "異常な要素群" は半端ではなくなっていそうだからだ。
が、あえて単純な言い方をするならば、上記のニュース記事中にもあった<「痛い!」>という感覚、生きものとしての根源的な感覚を、日常的生活の中でもっと "リアル" に取り返すべきではないか、とそんなことを考えるのである。もちろん、今回、理不尽な痛みを負わされてしまった被害者は気の毒でならない。
現代という時代は、様々な "危険除去" や "苦痛(痛み)除去" の商品が氾濫する時代だと言える。教育現場でもというか、そこではなお一層そうした "除去" 作業が前提となっているのかもしれない。 "無菌空間" ならぬ "無痛空間" であることが当然視されているわけだ。
しかも、 "他人の痛み" には無頓着となってしまうという社会的仕組みの問題まで重なっている始末である。
つまり、 "「痛い!」という感覚" は、もはや "リアル" ではなくて、いわば "シュールリアル(超現実的)" となってしまっているのかもしれない。
時代環境の隅々から、パージ(追放)されている "「痛い!」という感覚" を、どう有意味的に取り戻したらいいのか......、そんなパラドキシカルなことを考えたりする...... (2010.06.18)
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