昨今の、凄まじく常軌を逸し、なおかつ短絡的な犯罪に接する度に、現在のこの国の人の中には、"思考停止" か "思考放棄" としか言いようがない人が増えているのかと想像してしまう。
従来、そうした "後先を顧みない" 事件を起こす人々に対しては、"衝動的" だとか、"自暴自棄"、"やけっぱち" だとかの仕分けをしたのかもしれない。
そして、そうした仕分けの前提として、そうした事件を引き起こす者はごく限られた例外的存在だとする暗黙の前提があったのかもしれない。
しかし、どうなのだろうか? このところこうした事件が頻繁に起きているかに思われる。なおかつ、こう言っては何だが、前後の見境もない "杜撰(ずさん)" さだとしか言いようがない運びが目に付く。だからこそ、"衝動的"、"自暴自棄"、"やけっぱち" な事件だと見なされるのだろうが、それにしても度を越していよう。
妙な表現だが、文明社会で、しかも "知識情報が浸透" しているとされるこの現代を考えると、はなはだ似つかわしくないとさえ見える。
額面通りの "知識情報が浸透" しているとするならば、自分の頭で考えることも深まっているはずだろう。そして、"何をすればどうなる" というまともな考えが働く結果、犯罪抑止にもつながるはずであろう。さもなくば、不穏な話とはなるが、"杜撰" ではない、もっとマシな "計画犯罪(?)" となったとしても不思議ではない......。
ところが、現状は "杜撰" そのものであり、あたかも "思考回路" 自体を迂回してしまったかのような印象を受けてしまう。
一体、どういうことなのだろうか?
今、われわれは数え切れない不安の種を抱えている。そして、中でも "無縁社会" という言葉には "薄気味の悪いリアリティ" を感じたりしている。
そして、上記のような "後先を顧みない" 事件の多発なのであるが、どうもこの "無縁社会" 化の昂進と無関係ではなさそうな気がするのである。
元より、人間の "思考(や感情)" の安定性というものは、孤立していてはムリなのであり、他者や何らかの集団への所属、もしくはそれらとの関係が保持されていなければ叶うものではないと言われている。
詳細な議論を大幅に省略してしまうのだが、人間の "(理性的)思考" は、孤立単独ではかなり存立困難でありそうだ。元々、"思考" とセットとなっている知識情報というものにしても、集団や社会を前提にして成り立っているものであり、完璧に "個人的" な知識情報というものは考えられない。人間の "思考" には "集団・社会" との関係性が刻印されているわけだ。
人は、様々な "集団" に準拠しながら(= "縁" を保持しながら)、"思考" を働かせたり行動したりしてきたはずであろう。ところが、現代という "病的な時代社会" では、その "縁" が突然のごとく "希薄" にされ、 "ナッシング" とさえなってしまった。
ただ、かろうじて "思考" を運用させる材料としての知識情報だけは、現代という時代が情報化時代であるために "不自由" しないかのような "錯覚" が生じている。
しかし、この状態、つまり、自身が集団に準拠せず "無縁" に限りなく近い状態であり、そして、知識情報は元々が抽象的・一般的なのだから、個々人は、ほとんどリアリティを伴った他者や集団との関係性を持たずに "脳活動(思考)" を展開させることになりそうである......。果たして、こうした状況下で、人は "ノッペリとした" 知識情報だけを使って "思考" をまともに働かせることができるのであろうか......。この点が懸念されるのである。
やや図式的な表現になってしまったが、人間が考えるということに関してこうした実に "危なっかしい" 環境が広がっていると見なすならば、"無縁社会" の "悲劇" は、"孤独死" や "貧困生活" という悲惨さだけでなく、人間が人間であることの証左でもある "思考" や "精神生活" においてもかなりの悲惨さを深めつつある、と思われる。
"無縁社会" という言葉が、先ずは人と人との "縁" という局面に焦点を合わせるのは当然である。しかし、注目してみたい問題側面は別にもあるということなのである。
"無縁社会" であっても、知識情報さえ行き渡れば人々は自身で "考える" ことができる......、と見なされがちなのだが、必ずしもそうではなさそうな気がするのである。
日ごとメディアを飛び交う知識情報を処理して "考える=思考する" ことにおいてさえ、"縁" というか、"他者や集団への準拠・帰属" という側面は欠かせないにもかかわらず、意外となおざりにされている。その結果、まともに考えられない "思考(停止)難民(?)" が増えてはいまいか、という点なのである。この事情は決して青少年たちだけではなさそうである。
極論をすれば、知識情報というものは元々が個々人のリアリティある具体的個別的事情からは遊離したもの(「一般論」!)であり、言ってみれば、"脱臭・脱色" されたもの、"エン・コード(暗号化)" されたものだと見なした方が分かりやすい。
これらの "ノッペリとした" 知識情報は、そのままでは個々人の "脳活動(思考)" 展開にも馴染まないし、"意味付け" もなされず、まして行動にもつながらない可能性が高いと思われる。
その "エンコード(暗号化)" された知識情報を、"デ・コード(解読)" して、個々人の "脳活動(思考)" 展開に馴染ませたり、"意味付け" したりする役割を果たし、支援するのが、それが周囲の "他者や集団" なのだと考えられる。そう考えると、"無縁社会" 化の昂進は、知識情報を処理し意味付けられないような "思考(停止)難民(?)" を密かに増やし続けていると言えるのかもしれない......。
間違いなく知識情報のウエイトが高まっているにもかかわらず、これらが個々人側で有効に処理されるために "不可欠な装置"="他者や集団への依拠・帰属" の側面が、"無縁社会" の昂進過程で惨めなことになっている点が気になるのである...... (2011.03.06)
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