2011年11月 アーカイブ

 "ソーシャルメディア" が人々の注目を集めているのには相応の根拠があることは間違いない。しかし、その事と現に利用されている実態水準への評価は別だと考えなければならないし、さらに "とにかくバスに乗り遅れるな" 的な慌て方にも感心できない。
 とかく、われわれ日本人は "熱し易く、冷め易い" と言われるが、そうした流れの足元には "みんなと一緒が一番......" という(横並び)盲信感覚があるのかもしれない。

 ただ、"ソーシャルメディア" とは、"乗り遅れ" が問題となるバスや、"みんなで渡れば怖くない" ような横断歩道のようなものか、というシニカルな疑問を抱く。
 確かに、今現時点では、冷静沈着なスタンスを示すことは、「王様は裸だ!」と叫ぶに似た "冷水" だと解される "空気" がないではない。
 しかし、"歩きながら考える" ことが妥当なのであって、"とにかく走れ" の時代でもなかろうと思う。逆に、それが "ソーシャルメディア" を定着させる近道だとさえ思う。
 その意味では、下記引用記事と同一執筆者である 大谷 晃司 の次の記事は、"歩きながら考える" タイプの記事で好感が持てた。"ソーシャルメディア" への<"気持ち悪さ">とか<最大の違和感は公私の別が薄れつつあること>などについては、軽い "空気" に圧されずにもっと真摯に考察されていい点のはずだと......。
◆参照 ソーシャルの "気持ち悪さ" と "心地よさ"/IT pro - 大谷 晃司/2011.11.18

 さて、今回レビューしたいのは下記の記事である。関連分野では著名な方々のパネルディスカッション風景を伝えるものだ。

 「うまい企業は組織の長がやっている」、ソーシャルメディアを小飼氏らが語る
大谷 晃司

 2011年11月27日、ニフティが運営するライブハウス「TOKYO CULTURE CULTURE」で「ソーシャルメディアトークライブ」と題したパネルディスカッションが開催された。登壇したのは著名なブロガーでオープンソース開発者の小飼弾氏、エンジェル投資家であり「僕は君たちに武器を配りたい」「武器としての決断思考」の著者でもある京都大学客員准教授の瀧本哲史氏、「ソーシャルメディア進化論」の著者でエイベック研究所代表取締役の武田隆氏の3人である(写真1)。進行は瀧本氏が担当した。話題は匿名と実名、企業でのソーシャルメディア活用などに及んだ。 「うまい企業は組織の長がやっている」、ソーシャルメディアを小飼氏らが語る(大谷 晃司)/IT pro/2011.11.28





















 オーバーな表現かもしれないが、今年は、あたかも "ソーシャルメディア" の話題が軸となって回った一年のような気がしないでもない。自身が注目している対象が記憶エリアに大きく残るのは当たり前なのだろうが、そんな気分で年の瀬を迎えようとしている。
 そんな折、好都合にも、下記引用のようなサイト記事が目についた。
 "ソーシャルメディア" をめぐる今年:2011年と、来年:2012年におけるトレンドをまとめた記事である。
 最初の印象は、頷けるトレンド項目はそれとしても、"馴染みの薄い" トレンド項目も並べられていることであった。若干、反芻してみて、やっと、ああ、そういう項目のことね......、といった次第であった。

 下記引用部分で関心を向けたものについて二、三書いてみようかと思う。
 先ず、今年:2011年の<5つのトレンド>からは、<① 消費者によるコンテンツキュレーション>についてである。
 "キュレーション" という概念については、当誌でも何度となく言及してきたところである。たぶん、この概念は今後とも色濃く注目され続けるものと思われる。
 <TwitterやFacebookのように、ストリームで絶え間なく流れていく情報に対して、本当に価値のある情報をキュレーションすることの必要性が高まっている、というのは2011年のトレンドして確かにあったと思います。>とあるが、そもそも、"ソーシャルメディア" の発祥自体が、"情報過多の現代" に由来することを思えば、"キュレーション" と "キュレーター" についての話題は重視されて然るべきかと思われる。
 ところで、これに関しては、"自動化(プログラム化)" のツールの話題も目にするが、どうであろうか、やはり本質的な部分は "人間の能力" に依存せざるを得ないと感じている。
 なお、この<コンテンツキュレーション>に関しては、引用分にも "リンク" が張られている<現代ビジネスに寄稿>されている以下の記事は興味深いことを言い添えておきたい。
 ◆参照 Vol.6 「分解されるメディア コンテンツ・キュレーションについて考える」/現代ビジネス - ReWired 再接続される未来――21世紀の新戦略を探して――/2011.08.18

 来年:2012年における<トレンド7つ>からは、<③ ソーシャル・コマースの成長>と<⑤ ソーシャル・サーチ(検索)の進歩>とが注目できた。
 いずれも奥の深いテーマであるため、また別途考察したいので、ここでは簡単に触れて済ましたい。
 <③ ソーシャル・コマースの成長>に関しては、まさに、来年:2012年は、企業によるマーケティング戦略の大きな一翼として成長させられるのではないかと思われる。下記引用の図表でもその動きが予想されている。
 <⑤ ソーシャル・サーチ(検索)の進歩>についてだが、"ソーシャルメディア" を活性化させた原因でもある "情報過多の現代" にあっては、"情報検索" 自体が困難を極めるわけであり、最悪の場合には、何をどう検索すれば自身の関心情報に辿り着けるのかを思い煩うことにもなりかねない。
 この困惑を、"ソーシャルメディア" に蓄積された人々の同種の情報(ex.知恵袋、質疑問答etc.)を還元することで救おうとするのが、"ソーシャル・サーチ(検索)" の考え方かと思われる。
 ちなみに、次のような暫定的定義も見出される。

<"ソーシャルプラットフォームとの親和性が高い拡張機能を兼ね備え、そこから収集されるユーザー個人の属性情報を解析し、検索結果を個人別にカスタマイズする検索システム。">WEB検索の未来「ソーシャルサーチ」について考える/「テム・レイの頭の中」/2010.12.02

 "情報検索" のニーズの高さを思えば、たぶん、この "ソーシャル・サーチ(検索)" 機能が進化を遂げる推移もまた大いに予感されるところなのであろう。

 "奨学金" の返済では結構苦労した覚えがあるので、下記記事の "学資ローン" の返済で喘ぐ "OWS 運動" 参加の若者の苦悩は良く理解できる。
 自分の場合は、返済時期が景気低迷前であったからまだしも、この景気 "どん底" 時代にあって高額の借金返済を背負う立場の苦痛はひとしおのはずであろう。
 その苦境が、普通では考えにくい<「僕には8万5000ドル(約670万円)の借金がある」>と書いたプラカードを掲げる行動につながっているのであろう。

 "OWS 運動" への関心のきっかけは、これまでにも何度も書いているように、"ソーシャルメディア" が駆使されているという面の持つ意味が大きい。新しいコミュニケーション手段(メディア)としての"ソーシャルメディア、SNS" が、社会の変革にどうコミットしていくのか/いけるのか、というテーマは、関心の対象とならないわけがない。
 まして、まるで "手詰まり状態" にあるとしか見えない、この日本および世界各国の社会経済の現状を直視するなら、なおのことであろう。

 ところで、こうした現状の "手詰まり社会経済" に対して、人はよく "景気さえ良ければねぇ......" という感想を漏らすものだ。もちろん重要な視点ではあろう。
 しかし、過去のように、景気回復がその種の経済対策常套手段によって実現可能であるならまだしも、事態はそう簡単な局面ではなくなりつつあるから深刻なのだろう。
 ふと、「卵が先か、鶏が先か」という言葉を思い起こす......。"景気回復"(鶏?)があって、"社会問題解決"(卵?)なのか、いやその逆順なのかと......。

 メジャーな見解なのだろうと思えるが、"鶏" あっての "卵" だという従来どおりの "景気回復至上主義"、それは今なお有効な選択肢として残されているのであろうか? その点に少なからずの疑問を持ってしまうのだ。
 たとえば、冒頭の "学資ローン" 返済問題にしてもそう思う。事は重要な "次世代経済" に関わる問題であろう。また、昨日書いた "難婚" 問題( ソーシャルメディアが"社会問題"へとコンタクトしてゆく道筋は!?/ex."難婚"問題 )にしても同様であろう。
 端的には "環境問題" が目につくわけで、その他いろいろと例を挙げれば切りがないが、要するに、現状は、"ご乱心の鶏" が "卵" をまで啄ばむ! ような雰囲気がないだろうか、ということなのである。

 こうした "ご乱心現象" については、"誰かが警告" してやらなければならないはずではなかろうか。タコが自身の足を喰うのと同じことをしていると、"次世代" 問題であるどころか、早晩、"「自」世代" で身の破滅をしかねないからだ。
 われわれの経済社会に照らして言えば、一般大衆による "需要" が先細る消費経済が果たして "好景気" を招来するものであろうか?
 こう考えると、"財政難" を理由に "卵" のケアを軽視する処し方にはムリがあり過ぎると見える。"次世代" の人間社会への "保険料!" は、何を工面してでも拵えるのがスジだと思わざるを得ない。
 "OWS 運動" が唱える "貧富の差、経済格差の是正!" というスローガンは、未来に向かってしか生きられない人間にとって "分かりやす過ぎる" 主張のように思える。

 以下に取り上げてみた二種類のサイト記事。一つは、失業問題とともに社会的に懸念される "難婚(婚活)" 問題(<結婚「しない」から「できない」に=付き合いできず>と悪化!)を伝えた報道記事(2)、そしてもう一つは、こうした現実に触発されたテーマを取り逃がさずに "SNS スタートアップ" へと結びつけている逞しいサンプル紹介記事(1)だ。
 これらは、"ソーシャルメディア" は、どのような経路で "ソーシャル・プロブレム = 社会問題" へとコンタクトしてゆくのかという道筋を、改めて考えさせる材料となった。逆に言えば、"リアル" であるはずの現実問題は、どのようにして額面どおりの "リアル" さとそれゆえの説得力とを回復させられるのか、というテーマにもつながる。
 つい先日も、深まる失業問題が気になって "ソーシャルメディア"が文字通り"ソーシャル"となれるかの試金石?! "就活問題"! ( 当誌 2011.11.24 ) を、米国の例を挙げて書いたりもした。

 現在のこの国での日常には、まるで "社会問題のデパート or スーパー" とでも言えるほどに、"ソーシャル・プロブレム = 社会問題" が盛りだくさん撒き散らかされていると言わざるを得ない。
 ところで、厳密に言えば、そうした "ソーシャル・プロブレム" のソーシャルと、"ソーシャルメディア" のソーシャルとは "視点がズレている" と指摘することもできる。
 それについて言えば、一体どちらが "リアル" なのかを問うてみると、意外と答えは割れてしまいそうな気がする。一般的には、"ソーシャル・プロブレム" の方が "リアル" に決まっていると言われがちであろう。しかし、"ソーシャル・プロブレム" の方が "虚構的(空々しい!)" と見えてしまうこともあながち否定はできない......。

 仮に、「そんな嘘っぱちな話はねぇだろ~......」「だからそんな話には付き合ってはいられねぇ......」といった心境がありがちだとすれば、そうした心境によって "ソーシャル・プロブレム" からその "リアル" さ(= 臨場感?)を感じることは、意外と難しいかもしれないとも思えてしまうからだ。たとえ、深刻な影響を被っていたとしても......。
 つまり、問題含みの環境が持つ "著しい不透明さ"、"著しい困難さ" などと、"無力感に浸された自分" といった組み合わせにあっては、問題含みの環境が、 "アパシー(無気力・無関心)" の結果 "リアル" さを喪失してしまう、ということになりかねない。
 逆に、会話にせよゲームにせよ、"ソーシャルメディア" の中の出来事は、自身が投げかけたアクションで実感的に即座に回る分だけ、そこに "リアル" さを感じる可能性は大いにあり得る。たとえ、その大前提の舞台場面("ソーシャルメディア" )自体が "フィクショナルなもの(バーチャル!)" であったとしてもである。
 それはまるで、睡眠中の夢が、それが夢であるとは一瞬たりとも知り得ない仕組みとなっている、そんな生理的メカニズムに似ているのかもしれない。

 誤解を恐れず簡単に言い切ると、自身が関与(コンタクト)できる対象には "リアルさ(= 臨場感!)" を感じられもしようが、茫漠としていて、しかも欺かれ続けてもきた(?)対象であって、加えてアプローチの困難さが丸見えの "現実" の対象・ジャンルに、人は如何ほどの "リアルさ(= 臨場感!)" を感じ得るか、というロジックなのだ。

 言うまでもなく、"ソーシャル・プロブレム = 社会問題" が繰り広げられている "ソーシャル" が "リアル" であることは紛れもない事実である。しかし、その事実を振りかざして、だから "リアルさ(= 臨場感!)" を感じなさい! と説教したとしても何も始まらないワケではなかろうか?
 こう考えると、こうした事情があるからこそ "ソーシャルメディア" は、人に "リアルさ(= 臨場感!)" を提供しながら、人を魅了し続けているメディアなのかもしれない......、と思わずにはいられない。

 そこで、浮かび上がるテーマが、ならば、"ソーシャルメディア" はどのように事実としての "ソーシャル・プロブレム = 社会問題" へとコンタクトしていくのか/いけるのか、ということになる。( "社会貢献型 SNS" もスタートしているが......)
 視点を引いて視界を広げれば、これは、"ソーシャルメディア" をパワフルな "エンジン" としたあの "OWS 運動" が、今後どのようにリアルな実績をゲットしていくのか/いけるのかという "スペクタクル" にも通じていることは間違いない......。

 "スモールワールド" とは、「世間は狭いね!」との感慨をもたらす日常的経験に関する "実験的事実" のことだ。
 当誌でも以前に下記のように注目したことがあった。

―――― < 私たちの社会は、お互いに離れているように見えても、実はみなつながり合っていて、世界は意外と狭いという学説がある。イェール大学のスタンレー・ミルグラムによる実験が有名だ。1967年に行われたその実験は、アメリカ中部の州で160人の協力者に、東部にあるボストンで株式ブローカーをしている人物の名前と写真を示し、知り合いの知り合いを通じて、この人物にたどり着けるかを試すというものだった。結果、被験者の約4分の1がみごと到達し、平均して6人の知人を伝ってたどり着いた。このことから私たちの社会は、それぞれ6次の隔たり( Sixth Degree )でつながり合っていると発表された。......
日本の大手SNSミクシィにおいても、その友達どうしの関係図を分析したところ、6~7人で95%以上の利用者がつながり合っているというデータが発表された。( 武田隆 (著)『ソーシャルメディア進化論』ダイヤモンド社 2011.07.29 )

 "スモールワールド" という視点、切り口が示すものは、"ネットワーク" という現象自体が、われわれの想像を超えて "豊饒" であるということ。その結果として、人間世界は 濃密な "相互関連" で凝縮されることとなり、"関連のない未知数的要素" で大きく水ぶくれした巨大さではなくて、思いのほか "スモール" だと考えざるを得ない......、ということであろうか。それを日常感覚的に言ったのが、まさに「世間は狭いね!」との感慨なのであろう。>ソーシャルメディア"炎上"原因の"見える人"と"見えない人"/"スモールワールド"!( 当誌 2011.11.07 )


 "斜に構える" ならば、だからどうだって言うの? という感想もアリだろう。
 "無縁社会" という不気味な言葉にも直面している現実を思えば、下記記事にもあるとおり、<隔たりが減少したとしても、ユーザー間のつながりの「質」を計るのは依然として難しいとバックストーム氏は認めた。>とあるが、本当の問題、意味ある問題は、"つながり" の "質" 、"中身" なのだと迫ることも十分に可能だ。
 また、"斜に構える" 姿勢を続ければ、<州、国、さらには大陸全体のユーザー間の隔たりの数が減少している一方で、友人の大半は自分の周辺に局所的に集中していて、すべての関係の84%が、同じ国に住んでいるユーザー間のものだった。>という調査事実も注目しておいて良いかもしれない。

 しかし、それでもなお、"SNS" の Facebook が、世界をますます "狭く" させていて、"スモールワールド" への傾向を強めている事実には目を見張るものがある......。

 "情報発信" がイージーとなったネット環境では、それに伴う "代償(対価)" とでも言うべき "リスク" を引き受けなければならないのが現実。"リスク" とは "情報流出" のことであり、それ無しで利便性のメリットのみを享受することは難しい。残念ながら、それがシビァな現実かと思われる。
 この点は、操作がイージーなスマホの普及や、"実名制" の "SNS" の人気などによってなおのこと深まっているようである。
 こうした "リスク" と無縁であろうとすればネットの利用それ自体を控えることしかなさそうだが、実情を直視して防御姿勢に努めるならば、"リスク" を最小限にとどめることが可能なはずだ。

 そんな折、下記のような書き出しで始まる興味深く、かつ "タメになりそう" なサイト記事を目にした。

―――― <ある日突然、ネット上で"注目"され、氏名や住所、職場などの個人情報を暴かれる――。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)やブログ、オンラインストレージ、メールなど、様々なネットツールを使いこなす個人が増えている。これに伴い、個人からの情報流出も目立つようになった。特に気をつけたいのは、SNSやブログへの不適切な書き込み。一つひとつの書き込みでは個人を特定できなくても、多数の書き込みが短時間で集められれば、当人の名前や住所などが明らかになり、さらにその友人まで個人情報をさらされる恐れがある。......(日経パソコン 勝村幸博)><注目されたら一瞬 SNS経由でさらされる「個人」 危険な情報流出の実態(3)/日本経済新聞 - 特集:危険な情報流出の実態/2011.24.>

 "ソーシャル・ゲーム" も結構だけれど、喫緊の"社会問題(失業!)" 解決に貢献できてこそ、胸を張って "ソーシャルメディア" だ言えるんじゃないでしょうかね......。
 "ソーシャルメディア" での "人格" が、ビジネス視点での "マネタイズされる実名" 云々であっても取りあえずヨシとしましょう。
 ただし、"実名性" の恩恵が、企業によるマーケティングのための "マネタイズされる実名" というだけでは甚(はなは)だ心地良くない話かもしれない。
 "実名性" の恩恵は、"ソーシャルメディア" 利用者に等しく還元されて然るべきではなかろうか。そこで浮かび上がってくるのが、"就活問題"! ということになる。
 "新卒" から巷の "失業者" に至るまでの現状の凄まじさは今さら言うには及ぶない......。
 市場経済は、とかく "中間媒体" 経済要素となって "稼ぐ" スタイルが横行し過ぎる!ようだ。情報インフラが未整備な社会環境であった時代ならいざ知らず、現状では "中間媒体" 経済要素は、経済的弱者側に負荷をかけるだけの存在になっていそうだ。"求職・求人" 問題でも、そうした "中間媒体" を "中ヌキ" して、"求職" 側と "求人" 側とが "直接(頭越し)外交" をすればいい、と思われるのだが......。

 そんなことで、今回は、"ソーシャルメディア" と "就活問題"!に絡む話題を取り上げ、それに関するサイト記事二本を紹介しておきたい。以下のとおりだ。

 1."ソーシャルメディア" を通じた "就活" のコツは、「Super Social」となって、"下手な鉄砲も数撃ち" でカバーすることか......。

 昨日は、"実名制 SNS" でのセキュリティ問題の危うさについて書いた。
 ◆参照 実名制SNSでのセキュリティ問題ジレンマ?/積極的なつながり志向と攻撃の回避と( 当誌 2011.11.22 )

 確かに、こうした事象は "実名制 SNS" に身を委ねる以上十分に視野に入れておかなければならない問題に違いなかろう。
 しかし、"実名制 SNS" といった場合今一歩踏み込んで考える時、果たして "実名制" は "SNS・ソーシャルメディア" と親和性を持つのかどうかが気になってきたりもする。
 とかく、"実名制" こそが "正攻法" であるかのような "思い込み(先入観)" を抱きがちではある。
 そこには、"匿名" にて "誹謗・中傷" 三昧に及ぶ一翼の印象が、"匿名性" というものに陰湿なイメージを付着させる遠因があるのかもしれない。
 しかし、"匿名性" =陰湿 or 悪行と決めつけるのは能天気過ぎる判断なのかもしれない。世の中には、"匿名" にて寄付その他の "善行" をする方々も少なくない。元々、"名を隠した善行" こそが美徳だとする考え方が古来より伝わってもいる。

 一般論はさておくとして、ネット上での "匿名性と実名性" にテーマを絞ったとしても、"コミュニティ" 志向で始まったインターネットについては、必ずしも "実名性" が "正攻法" であるとは言い切れない脈絡がある。
 "実名性" が、"責任性" に着目する余り、過剰な "自己責任論" や "利己的姿勢" に帰着することもあるし、逆に、"無署名" や "匿名" での "利他的姿勢" の営為が "オープンシステム" (c.f. Linux, Wikipedia etc.) を下支えすることもあるわけだ。
 いや、初期インターネットの "正統嫡子" とも言えそうな "SNS・ソーシャルメディア" では、種々の意味合いでの "コミュニティ" 志向から、"匿名性" が持つポジティブな可能性を引き出そうとするユーザー間での期待・願望は強い。

 ところで、ネット上での匿名性と実名性については、以前に次のような記事を書いたことがある。
 ◆参照 匿名性と実名性:"ネット上の人格"/問題の核心はアイデンティティとは何かだ!( 当誌 2011.10.2 )

 その記事では、以下のサイト記事を引用しつつレビューした。

―――― 匿名性と実名性:「ネット上の人格」を考える
ネットにおける個人は現在、「マネタイズされる実名」か「カオス的な匿名」かに二極化している。しかし本来、人格はより多面的なものだ。匿名掲示板『4chan』を創設したクリストファー・プールの主張を紹介。......>
匿名性と実名性:「ネット上の人格」を考える/WIRED JAPAN -CULTURE- /2011.10.25

 人と人との "つながり" を求めて生み出される、フレンドリーな雰囲気の "ソーシャルメディア" に関して、人と人との "騙し合い" を警戒することはイヤなものである。しかしそれもまた現実! その場の空気に流されない警戒の姿勢が欠かせない......。
 Fecebook や LinkedIn といった "実名制" SNSの利用者が増える一方で、この "実名制" を逆手に取って攻撃者が情報を窃取するというケースが広がりつつあるというのだ。

 "友達リクエスト" という、"実名制" SNSにとっては "玄関口" とも言えるゲートが悪用されることになる。いわゆる "なりすまし" ということになるかと思われるが、"知人になりすまし" て "お友達" になりたいと申し出てくるわけだ。昨今、リアル世間では、攻撃者が宅配便業者に "なりすまし" て犯罪行為に及ぶ事件が頻発しているようだが、そんなイメージと似ている。息子や孫に "なりすまし" て、"振り込め詐欺" を働く犯罪も浮かんでくる......。

 要は、"なりすまし" た攻撃者をそれとして見抜くことが防御策となるわけだが、ここにひとつの "ジレンマ" が存在する。
 Fecebook や LinkedIn といった "実名制" SNSの利用者は、ひっそりと暮らしたいお年寄りとは違って、仕事面などでの人脈を可能な限り広げたいと願う積極派であろう。
 場合によっては、"最初はみな赤の他人から始まる......" とさえ考えている "超・積極派" もいないとは限らない。積極的な "リスク・テイキング派" だとも言える。

 先日、このブログで Facebookで「知らない人でも友人承認」が2割(WIRED)という"甘さ"は他山の石に! を書いた際、<「知らない人でも友人承認」が2割>の人たちを単に "杜撰な利用者たち" と決めつけがちであったかもしれない。
 しかし、よくよく考えれば、"人脈拡大" のためには萎縮こそ禁物、多少のリスク・テイクは当然......、と判断する利用者がいたとしても、あながち不思議ではないのかもしれないと思えてきた。
 まして "若い世代" の "個人情報" に対する考え方は変わってきたとも言われている。

<ソーシャルメディア上では、「顔写真の公開」を38%の人が問題ないとし、特に若い世代になるほど、積極的に個人情報を公開する傾向がみられる。
 見知らぬ仲間と出会うために、効果的な個人情報の公開が必要になり、プライバシー意識に変化をもたらしていると考えられます。>
"ソーシャルメディア"での"友達意識"が照らし出すもの!/電通「SNS100 友調査」( 当誌 2011.11.04 )

 とは言うものの、"悪意に満ちた闇" への想像力も欠かせない。特に、ビジネス組織に属する利用者の場合、攻撃者たちの "たくらみの深度" について高を括るのはリスキー過ぎるのかもしれない......。
 そんなことで、今回は下記のサイト記事を引用した。注目せざるを得ないのは、失礼ながら、末尾の<正直なところ筆者には落としどころが見えない>という点である。それはこの種の問題が決して見くびれないことを暗に示唆しているかに思われた。

 "ソーシャルメディア" が個人間水準で大いに注目され、持て囃されたり、さらには企業ベースでも積極的にその対応が取り入れられたりしている、そんな動向は、"ブーム" を超えた時代の必然性を感じさせもする。
 しかし、"ブーム" にはいつもこうした局面があるものだ......、と醒めた視線を注ぐ人がいないでもない。
 自分としては、そこまでは醒めてはいない。が、そうは言っても、"ソーシャルメディア" の前途に待ち受ける、あるいは現時点でも潜伏している "気になる問題点" を無視するほどに楽観的ではいられない。"水を注すのはやめてくれ!" と怒られそうでもあるが、むしろ、そうした "気になる問題点" を解消するためにも "見据えて" おいた方が良さそうか......、と。

 大雑把に言えば "二点" になろうかと思う。それらはいずれも、"ソーシャルメディア" の根幹にかかわる課題であるのかもしれない。
 その一つ目は、言うまでもなく、"ソーシャルメディア" は、人と人との "つながり" を求めて生み出されるメディアであり、その "つながり" の基軸となっているのは "コミュニケーション" 以外ではない。
 そして、現代という環境では、この人と人との "コミュニケーション" 行為( "対話" と言ってもいい)自体が、"懸念の眼差し" で見つめられたり、極端な場合には "絶望視" されたりしていること、そこに起因する問題なのである。
 よりシビァなフェイズで言えば、自分と他者とが "わかり合う" ということに帰着する問題なのかもしれない。逆に言えば、こうしたシビァな痛みが社会全体に蔓延しているからこそ、"ソーシャルメディア" に期待が寄せられるのかもしれない。
 だが、内容を盛る役割(場)としてある "メディア(媒介材)" が、斬新な工夫を凝らされたとしても、果たしてどこまで功を奏するものか......、ということなのである。ここには、"メディア" が変われば "内容( "対話" の難しさ)" も改善されるとする期待が大きい(大き過ぎる?)ような気がしてならない。(とりあえず、今回はこれ以上踏み込まないでおきたい。)
 なお、下記引用叙述では、筆者自身が、"わかり合う" ためのインターネット・ソーシャルメディア活用での難しさを叙述している。

<しかし、インターネットが求めるふるまいを理解したところで、私自身を省みれば、それを実際に実行に移すことは簡単ではない。>

 "ソーシャルメディア(or SNS)" が隆盛を極める時代には、益々<消費者の「企業活動に関する情報リテラシー」の高まり>(下記記事より)が顕著となる。
 ここでの<情報リテラシー>とは "情報チェック意識・姿勢" と言い換えても差し支えなさそうだ。"穏やかならぬケース" としては、"ソーシャルメディア(or SNS)" 上での "炎上" 現象が挙げられそうである。
 企業の "ソーシャルメディア(or SNS)" への対応に、不自然さや情報操作(?)的手口が表面化した際、それに対して、消費者・ユーザーの "情報チェック意識・姿勢" は敏感に反応し、その反応の "連鎖" が想定外の規模へと増幅されていくことになりかねない。

 しかし、<消費者の「企業活動に関する情報リテラシー」の高まり>がもたらすものは、もちろんこうした "穏やかならぬケース" ばかりではない。
 東日本大震災に関する企業による "募金" 呼び掛けに対して、惜しみなく "義援金" 提供という行動に出たのもまた、善意をベースにした、この時代の消費者・ユーザーの<情報リテラシー>ゆえだとも考えられる。
 ことほど左様に、"ソーシャルメディア(or SNS)" 時代の<消費者の「企業活動に関する情報リテラシー」の高まり>は、"両極端" な結果へと雪崩込むもののようであり、その分水嶺には "企業の社会的責任" という "古くて新しい" 観念が働いているように思われる。

 古くは、"公害問題" のような地域の環境破壊を焦点にして企業に向けられて糾弾的に使われた "企業の社会的責任" という言葉があったかに思う。
 もはや現代では、こうした意味合いでの "企業の社会的責任" は常識化しつつあり、さらに言葉の意味は拡大していそうである。

 その拡大した意味合いの中には、"ノブレス・オブリージュ"(仏: noblesse oblige)という麗しい文化的観念が潜んでいるかに思われる。直訳すると「高貴さは[義務を]強制する」の意味であり、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指す言葉だ。いわば、企業という存在は、周囲にもたらす "社会的マイナス面" が見つめられるだけではなくて、"社会的プラス面(貢献面)" までが "評価項目(?)" に加えられる時代になったと言えようか。

 
佐々木俊尚
キュレーションの時代
 "ソーシャルメディア" の現状については、どうしても "マイクロインフルエンサー" (<「自分にとって最も良き情報をもたらしてくれる人」、小さな圏域でインフルエンス (影響) を他者にもたらす人> ◆参照① ) の存在を抜きにして理解することはできない。
 多少強調して表現するならば、それぞれの "ソーシャルメディア" とは "マイクロインフルエンサー" 的役割を果たす者の "ファンクラブ" なのだと言っても過言ではなさそうである。それは、広く実感として受け容れられている事実ではなかろうか。

 ただ、そうした "マイクロインフルエンサー" は誰でもが担える役割だとまでは言えないのかもしれない。相応の "キャパシティ" が要求されそうだからだ。
 ちなみに、その "マイクロインフルエンサー" を支える能力については、暫定的にではあるが、以下のような能力要素を考えてみたことがある。( ◆参照② )

  1."文脈(コンテキスト)" 洞察力、メディア操作能力
  2."自分" という軸足を持った自己表現・参加能力
  3."専門分野" 発の伝達能力、成熟コミュニケーション能力
  4."コラボレーション" 能力、調整能力
  5."コミュニティ" 参加・運用能力


 ◆参照① SNSで注目度が高まる"マイクロインフルエンサー"!その影響力の数値化"Klout"!?( 当誌 2011.11.17 )
 ◆参照② ソーシャルメディア興隆領域での"時代の寵児"とはどんなスキル保持の人材像か?( 当誌 2011.11.13 )

 なお、これらの能力要素が欠かせないことは確かだとはしても、これらの必要性を頷かせ、納得させるためには、何か中心的イメージ/コンセプトが欲しいような気もする。
 そこで引き合いに出したいのが、聞き慣れないかもしれないが "キュレーター( ← キュレーション )" という言葉なのである。とりあえずの意味は次の通りだ。

 あらかじめ言っておけば、"ソーシャルメディア or SNS" での "Facebook vs. Google+" の熾烈なバトル! それが、庶民ユーザーのわれわれに如何ほどの関係があるのか?
 想像力と洞察力の乏しい自分としては、あんまり関係ないかなぁ......、という思いが禁じえない。
 そりゃぁ、米Googleが全世界のデータを益々自らのサーバーに蓄積していったらどういうことになっていくのかという一抹の懸念(杞憂?)を無しとはしない。しかし、正直な感覚で言えば、そうした事態とその影響とを考えることは、実感からはかなり "間接的" ではないかとしか思えないでいる。
 だから、"Facebook vs. Google+" の熾烈なバトル! をトレースすることにどんな切実な意味があるのだろうかと、自嘲気味で振り返ったりもしないではない......。

 しかし、そこまで言ってしまうと、マスメディアのニュースってぇのは一体何? どんな意味があるのかを一切不問に付して、タラタラ、ダラダラと、ただただ垂れ流しているんじゃないの? ということにもなりかねない......。
 またいつか書こうとは思っているが、"情報発信" には "発信者" のプロパーな視点(視座!)があって然るべきではないかと思っている。だから、仮にも "Facebook vs. Google+" の熾烈なバトル! について書こうとするならば、本来を言えば、どんな観点でこの事象が気になるのかを鮮明にさせなければ意味がないのではないか、と。

 そこで、一つだけおぼろげながらの関心の観点を披露しておくなら、"検索主義" vs. "文脈主義" の観点、とでも言っておこうか......。
 私見では、"検索" とは、自然な "文脈" から便宜的にデータを抽出することであり、そうしたアクションの必要性まで否定するわけではないが、データの "意味" がかなり損なわれるという難点を無視すべきではないと思っている。もちろん、Google 検索は、この "検索" を拠り所にした覇者であろう。
 それに対して、"文脈主義" とは、データが展開している場所、意味にこだわるもので、そうであるがゆえに何かと "分脈" をないがしろにはしない観点だ。"ソーシャルメディア or SNS" とはそうした "頑固者" なのではないかと感じている。そして、"Facebook" は、そんな性格のメディアではないか......、と。
 そうした直観が、"Facebook vs. Google+"(≒ "文脈主義" vs. "検索主義" )の熾烈なバトル! への関心を促しているのかもしれない。

 今日の話題は、"ソーシャルメディア" 領域で欠かせない存在として注目される "マイクロインフルエンサー" と呼ばれる人たちに関するものであり、さらに言えば、そうした人たちの "影響度を数値化" した『Kloutスコア』というものが着目されるようになってきた現状についてだ。

 ところで、先ずは、"マイクロインフルエンサー" 自体について振り返っておく。
 "ソーシャルメディア" は、人と人との "つながり" が形成され深められる場であり、そこでは "口コミ" 的機能が多大な影響力を発揮しているわけだ。
 また、"影響力" と言えば、その閉じた小さな場である "ソーシャルメディア" 領域では、少なくない "フォロワー" に対して相応の影響を及ぼし続けている "マイクロインフルエンサー" という存在が顕著に認められる。まあ、どのような集団、コミュニティにも見受けられる現象と言えばそうであるが。

< *マスモデルに基づいた情報流路から、ソーシャルメディアが生み出すマイクロインフルエンサーへ

 ...... 私はこのような 「自分にとって最も良き情報をもたらしてくれる人」をマイクロインフルエンサーと呼んでいます。小さな圏域でインフルエンス (影響) を他者にもたらす人、という意味です。
 一般的には、インフルエンサーというとテレビタレントや有識者のことを指しますが、このように小さなコミュニティ内で他の人たちに影響を与え、情報の流れの軸となる人たちは有名人であるとは限りません。ごく普通のブロガーであったり、あるいはマニアだったり。でも小さな情報の圏域の中での影響力は強く、そうした場所では情報はつねにマイクロインフルエンサーから、それを追いかける人たち(フォロワー)へと流れます。
 マイクロインフルエンサーは、情報アクセスを進化させる非常に重要な要素です。
 そのような漠然とした概念は以前から理解されていたことですが、しかしインフルエンサーの影響力の大きさがどのようなものであるのかを、ネットを使い込んでいる人たちが実感として理解できるようになってきたのは、ごく最近のことです。......>
( 佐々木俊尚『電子書籍の衝撃』/ディスカヴァ一携書/2010.04.15 )

 "ソーシャルメディア" 領域でのこうした "マイクロインフルエンサー" たちは、効果的な "ソーシャルメディア" 対応によってマーケティング効果を上げたいと望む企業にとっては、まさに "金の卵(?)" であるに違いない。"マイクロインフルエンサー" が発揮する影響力によって良好なマーケティング効果がもたらされる可能性が高いと見るからである。(<インフルエンサー・マーケティングという手法>)
 こういう文脈が表面化すると、"マイクロインフルエンサー" たちの誰がどの程度の影響力を持っているかを "数値化" して教えましょうか、というビジネスが生まれもする。
 下記引用記事の<『Klout』や『Peer Index』>とは、端折って言えば、そうした意味合いのツールだと言えそうである。

 ここまで来ている現状について、下記記事の筆者は、<『Klout』はどんな未来をもたらすのか>と題して、その "功罪(?)" を見つめている。
 共感しつつ、意を強めたのは、つぎのくだりであった。

一方で、影響力を下げてしまいそうなことは避けるようになるため、よりフォロワーからの共感を受けやすい煽動的なメッセージが増加するのではないでしょうか。
 また、常にソーシャルメディア上で情報発信をし続けなければその影響力を保てないため、ソーシャル疲れなどを体感するケースも増加することになるのかもしれません。


 この辺の懸念は、十分に推量されるところであろう。そして、こうした傾向が高じてしまうと、誰にとっても好ましくない事態が熟してしまい、却ってリスクが高まる......。
 「手に取るなやはり野に置け蓮華草」という句がある。"マイクロインフルエンサー" たちの "精彩な影響力" は、やはり "野" にあってこそ発揮されそうな気がしてならないのだが......。

 "Google+ Pages" については、昨日も書いた( Google+「ページ」がFacebookやTwitterに勝つ理由(WIRED)/検索エンジンの強み!?( 当誌 2011.11.15 ) )ばかりだ。が、米Google がこれを急速に立ち上げようとしているのは、どうも、今が好機、今をおいてない! とばかりの "キャンペーン" 的な動きに打って出ている、そんな気配を濃厚に感じる......。
 有り体に考えれば、米Google の思惑の軸足ポイントは、何と言っても "検索サービス" 以外にない点は変わらないはずであろう。したがって、同社の新しい動きの一つ一つの解釈に当たっては、取りあえずこのポイントに紐付けしてみることが妥当であろう。
 つまり、今回の "Google+ページ" を武器にして、米Google が "SNS" 領域に食い込もうとする動きの根拠もまた、"検索可能対象" とはなっていない現状の "SNS" 領域へのテコ入れ、追撃戦の一つではないかと推測すべきなのである。

 以前にも、米Google は、中小企業を対象に1年間無料で自社ウェブサイトを作成できるサービス、「みんなのビジネスオンライン」を開始したことを紹介した。その思惑を推定するに、ソーシャルメディア全盛のこのご時世であるから、自社ウェブサイト未整備の中小企業などは "Facebookページ" などに流れても不思議ではないこと、それを食い止めるための "予防策" =「くさび」として提起されたのが「みんなのビジネスオンライン」ではないか......と。
 ◆参照 Google:中小企業向け"みんなのビジネスオンライン"と同社検索サービスの裏事情?( 当誌 2011.00.00 )

 つまり、米Google の "検索サービス" 主義の観点からすれば、Facebook ほかの "SNS" 領域 は、"検索エンジン" が踏み込めない "不可侵" のエリアであるため、その増大を黙って見ているわけには行かないことになる。
 そこで、"Facebookページ" の "対抗馬" として、米Google "検索サービス" 傘下の "純正(?)" の "Google+ Pages" を、何としても推奨して行きたい! それが、米Google の思惑であるに違いなかろう
 下記引用記事には、<特に、中小企業は他社に先駆けて自社の社名を広めたいと思うはずだ。>とも触れられていて、ナルホドナァという気にもさせられた。
 ただし、こうして推定される米Google の思惑は、それはそれであり、むしろ "検索サービス" 傘下の "Google+ Pages" の方を採用することを "得策" だとして評価する "中小企業" があったとしても全然不思議ではないわけだ。
 というような "下衆の勘繰り" を並べ立てたところで、以下のような記事を紹介しておこうかと......。

 "ソーシャルメディア" の中には、企業が製品やサービスなどを紹介してユーザーとの密なコミュニケーション関係を形成するといったマーケティング用途向けの受け皿が用意されてもいる。
 Facebook では "Facebook ページ"(旧ファンページ)という、常に外部のファンにオープンで検索対象にもなるという特徴を持ったページがそれに当たる。個人の "プロフィールページ" とはやや別立てになっている。
 企業、ブランド、サービス、著名人など向けに用意され、アクセスしてくれた人に "いいね!" ボタンをクリックしてファンになってもらい、その上でファンのニュースフィードに情報を届け、その反応を得ながら良好な関係の構築を目指すというものだ。
 こうした特徴を持つ "ページ" は、ファンとの濃密な関係構築に向いている上に、開設も数分程度で完了し、"プロフィールページ" での "友達リクエスト → 承認" といった手続きが不要ということもあり、関係利用者からは好感が持たれているようだ。

 そういう状況もあってか、Googleは、<誕生まもない同社のソーシャル・ネットワーク>サービスに、"Google+のページ" の機能を加えたという。
 その内容は、基本的には<『Facebook』の「ページ」によく似て>いるようだが、"独自" な機能(「Google+ Direct Connect」、「サークル(グループ)」運用方法上の工夫など)のほか、Google 検索システムをはじめとした同社特有の豊富なサービスとの統合関係などが、"後発" ながら今後の大きなブレイクが望めるという見方もある。下記引用記事からは、決して小さはくない期待感が覗える......。

 "ソーシャルメディア" 活動が熟すと、"スタートアップ"(起業)が視野に入ってくるものであろう。
 有り体に言って、余り評論家的云々はすべきではない事柄だと了解はしているが、"ソーシャルメディア" 活動への理解を深めるという観点で、下記サイト記事をレビューすることにした。
 人は、"リスクテイキング" の視点に立ってはじめて事の真相が見えてくるものなのかもしれない。そう考えると、"スタートアップ" をシミュレーションしつつ、"チェックリスト" のひとつひとつを吟味して、見えていなかった点に配慮していくことは結構有意義なことではないかと考える。

 以前にも書いたが、何よりも関心が注がれるのは "スタートアップのコンセプト" についてかと思われる。それに関して、下記記事では実に単刀直入なアドバイスをしている。
 ■ 解決すべきユーザーの課題は明確か?の項で、<テクノロジ―から入ってしまうと、得てしてユーザーの課題解決にならないサービスが生まれてしまいがちです。サービスを創る際は、テクノロジ―ではなくユーザーの課題からスタートしましょう。>と釘を刺している点には強い共感を覚えた。
 極論をすれば、そもそも "ソーシャルメディア" 関連ビジネスが、"技術系" 畑の人材の守備範囲にあると勝手に信じることには大きな抵抗感を禁じえない。「紺屋の白袴」的実情が余りにも目立つからである......。
 "テクノロジー好きの人間嫌い"、"トータルシステムよりサブシステム偏重主義" などといった傾きで、この種の仕事に踏み込むことは自重したいものだと......。

 その他いろいろと "盲点" となりがちなチェック項目が多々あって十分参考となる。
 もう一つだけ老婆心で言うならば、<チームメンバーの共感を育み、維持させるのはファウンダー(創立者)の仕事でしょう。船頭として「面白い船」を創っていくことが、スタートアップにおいては大切です。>という点だろうか。
 "ソーシャルメディア" 活動の "コア(核)" は "コミュニティ" であり、その意味で■ チームは共感しているか? というチェック項目の持つ意味は大きい。
 ただし、"依存し合う関係" だけでの共感は墓穴を掘りかねない。リーダー = ファウンダー(創立者)が果たす役割は決して小さくはない、と痛感する。

 
佐々木俊尚
電子書籍の衝撃
 時代環境というものは、自身の姿を誇示するかのように己が手勢となる者たちを贔屓(ひいき)して止まない。
 "ソーシャルメディア" が時代のホットイシューと目されている今、このジャンルで才を発揮する者( "時代の寵児" )たちは、至るところから熱い眼差しで見つめられている気配である。
 何かと冴えない経済状況で喘ぐ "企業" サイド( "マーケティング" )から然りであり、また閉塞感が頂点に達しているかの社会情勢での "社会変革ムーブメント" サイド( "OWS運動" )から然り、あるいは身近な世直し活動サイド( "ソーシャル・グッド" )からも然りというように。また、当人たち自身からも "スタートアップ(起業)" に挑もうとする濃厚な構えが覗える昨今だ。

 では、熱い眼差しで見つめられているとされる "時代の寵児" たちは、一体、どんなスキルやセンスを保持した人材であり、その人材像はどう描けるのであろうか。
 "ソーシャルメディア" という存在自体の輪郭が不明瞭なままである今、こうした問いを発するのは尚早の観ありとはしても、問い始めることに意味があるとは思われる。
 それと言うのも、"ソーシャルメディア" は、人と人との "つながり" こそが焦点化されたメディアなのであり、その点から、この領域で活躍する者の "人物像" はさぞかし鮮やかなのではなかろうかと想像できるからだ。
 Web関連スキルはもちろんのことだとして、それ以外にどんなヒューマンスキルなりセンスなりが卓越しているのかに関心が注がれるところだ。

 先ず、一昨日、 SNS 時代には"面白いヤツほど会社を辞めていく"/創造的でワクワクする仕事求め!( 当誌 2011.11.11 ) にて引用した以下の部分に目を向けておく。

―――― < 私の知る中で、会社を辞めていく「面白いヤツ」はいずれも、
1.社外でも何らかのプロジェクト(被災地支援活動、スタートアップなど)を仲間内で動かしている
2.副業ができるだけの高いスキルを持っている
3.ソーシャルメディアを使いこなす高いITリテラシーを持っている と言った特徴を有しています。>
会社を辞めていく優秀な若手社員の求めるもの/現代ビジネス - ソーシャルウェブが未来を創る!/2011.11.08

 ここには、特別に目を引く指摘があるようには思えないが、"実践的" と言うか "現在進行形" 的な状態(<動かしている>、<副業ができるだけの>、<使いこなす>)であることの意味が注目される。

 次に目を向けてみたいのは、『電子書籍の衝撃』の著者:佐々木俊尚氏が、同著の<ソーシャルメディア時代を生きるスキル>という節において、実に示唆的な解説を行っている部分(なお、この節の直前には、音楽のアンビエント化環境の中で、独自な音楽を、MP3データでネット配信するブロガー:まつきあゆむさんの活動状況を紹介している。)である。

 
大前研一
洞察力の原点
 図らずも昨日のブログ( SNS 時代には"面白いヤツほど会社を辞めていく"/創造的でワクワクする仕事求め!( 当誌 2011.11.11 ) )と連続性があるかたちとなった。

 今日は、"会社を辞めていく面白いヤツ" たちの "スタートアップ"(起業)活動を支援する、国内の動きを、下記引用記事を通して垣間見ることにする。
 もちろん、下記引用記事がその動きのすべてではないだろうし、また、支援らしきものもなく、孤立、もしくは仲間うちでの独立独歩スタイルによって悪戦苦闘しているケースも少なくないに違いない。いや、そうしたケースの方が一般的なのだろう。

 <世界市場を容易にターゲットにできる>(下記引用記事)とは言うものの、そこには "事業化" に向けた "シビァな隘路" が待ち受けている。場合によっては「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」ほどの難易度であるのかもしれない。
 何が "シビァな隘路" であるのかに目を向けてみると、"事業化" を思い起こさせるに至る原点としての "アイディア" や "コンセプト" の存在があろうかと思う。
 もちろん、これだけあっても叶うはずはない。しかし、"ソーシャルメディア" が "見える人" ならではの "武器 = センス" は、きっとこの一点に収斂するかに思われる。いや、あくまでも部外者の勝手な言い草でしか過ぎず恐縮であるが......。

 そして、そこには慄然とする "アンビバレンツ(二律背反)" が潜んでいるとも言われている。

「貴重なコンセプト : 逆に言えば、少数の人にしか理解できないコンセプトしか、現代の経済社会では事業にならなくなった」(大前研一『大前の頭脳』/『大前研一 洞察力の原点』)

 現代の経済社会の環境では、「少数の人にしか理解できないコンセプト」でしか "事業化" は困難だというシビァさ! 要は、容易に多くの理解者 = 賛同者が得られるような "コンセプト" では、"束の間の安堵感" は得られたとしても、"感染(バイラル・ループ)"( ◆参照 "バイラル・ループ"をも駆動するソーシャルメディア!平凡ながら正攻法伝播力!( 当誌 2011.11.02 ) )的な展開を望むことは難しい......、ということなのであろう。

 こう考えると、"スタートアップのコンセプト" に対して "理解を得る = 支援を受ける" ということは、並大抵のことではないことになりそうだ。それゆえに、"孤立、もしくは仲間うちでの独立独歩スタイル" で忍ぶ優秀な若者たちも少なくないと......。
 また、"支援する側" の "リスクテイキング" の度合いも破格だと思われる。何だか、アーチストやタレントの "新人発掘" という光景が思い起こされたりもする......。
 こうしたことが想定される中で、下記引用記事のような "新人発掘" 営為が "事業化" されているというふうに理解している。

 "ソーシャルメディア" は、<世界横断的! ジャンル横断的!>( ◆参照 "ウォール街占拠デモ"と"スタートアップ企業"とに"共通点"を見出すことの意味!( 当誌 2011.11.09 )に展開されている。それ故に、"見える人" にはこの世界からのリアルなメッセージが手に取るように分かり、自分自身の現場(帰属企業etc.)における "周回遅れ" 的現状が、我慢がならぬ程に乖離(かいり)していると痛感させることにもなる......。
 そんな居たたまれぬ思いが募ると、今の会社を辞め、自身を求める "ソーシャルな世界" に身を投じようと決意する......。それは、唐突なたとえかもしれないが、あの坂本竜馬が脱藩の上、時代変化の坩堝たる江戸へと向かうことに似ていたりして......

 "ソーシャルメディア" 上では、周知のごとく、人と人との新たなつながりに基づくニュービジネス("スタートアップ企業")ばかりか、"ソーシャルグッド"(社会貢献。これに関しては機会を改めて書く予定。)を巡る斬新な活動なども、容易に視野に入る環境となっている。
 だが、こんな厳しい経済環境での "転職" は無謀だと言う人は言うに違いなかろう。しかし、かと言って、<「水で満たされたバケツ」しか提供できない企業>(下記引用記事より)などが、今後も "リスク・フリー" であり続けられると言い張るには小さくないムリがありそうにも思える。
 まして、社内の "見える人" を活かし切れないでいる企業(組織)には、"ソーシャルメディア" とは無縁な "垂直ピラミッド型組織" 特有の、あの硬直した "官僚主義的" な空気が充満している恐れもあろう。十分に、察して余りある......。
 そんな企業は、社内の優秀な人材に対する "求心力" を損なっているだけではなく、企業活動に今や重大な影響力を発揮している "ソーシャル" な顧客・ユーザーに対する "求心力" を失いつつあるとさえ言えるのかもしれない。

 企業(活動)の足元に、ひたひたと忍び寄っている、いや、"ソーシャルメディア" 興隆といった社会現象ならば、もはや明瞭な姿で、公然として迫ってきているはずではなかろうか。
 それが、何を意味するのかを了解不能な "見えない人" たち、そうした人たちに今さら意識改革や古き感覚の洗い流しを迫ったところで、実を言えば "間に合わない" のかもしれない......。クールにそう考えると、旧態依然とした藩の方が、脱藩浪人となった竜馬よりも "リスク・フリー" だなぞとは到底言い難い......

 いや "意味のある問題" は、どちらが安全か、"リスク・フリー" かではなさそうである。まさに、"意味のある問題" にあっては、"職の意味" こそが問われていそうだからである。
 <無難な仕事をして働くのではなく、もっと創造的でワクワクする、本当に世界を変えるほどの大きな仕事>(下記引用記事より)
 まあ、<大きく>はなくとも、少なくとも<創造的でワクワクする>仕事、それ以外に "ソーシャルメディア・ネイティブ" 世代が目指すべきものは何もなさそうだ......

 
Facebook
Perfect Guide Book

分かり易さ故お薦め!
 "ソーシャルメディア"(SNS)は活用次第では時代からの魅力的な贈り物! だからといって、使い方までがどうでもいいというバカチョンものではなさそう......。しかも、新しい道具立てだけに、要領を得ず「まぁ~、いいか」とばかりに甘くもなってしまう向きも無きにしも非ず。こうした盲点については意識的に注意を向けるべきかもしれない。

 若い世代には "プライバシー" 対処法に変化が見受けられるとも言われている。 <ソーシャルメディア上では、「顔写真の公開」を38%の人が問題ないとし、特に若い世代になるほど、積極的に個人情報を公開する傾向がみられる。  見知らぬ仲間と出会うために、効果的な個人情報の公開が必要になり、プライバシー意識に変化をもたらしていると考えられます。>"ソーシャルメディア"での"友達意識"が照らし出すもの!/電通「SNS100 友調査」( 当誌 2011.11.04 )

 とは言うもののやはり "リスク・テイキング" については相応のクールさがあって当然の話だろう。過度の "露出" は、カメラ撮影ではないけれど "真っ白につぶれる" 結果にもなりかねない......。
 "Facebook" に関する以下のような調査結果は、他人事と見なさずに「他山の石」として警戒しておいた方が良さそうだ。

 この間、"ソーシャルメディア"の"威力!" とも言うべき展開に、まさに視線が釘付けとされてきた。また、その "威力!" が発揮される場であるならば、"ジャンルの違い" はさほど問題でないという気もしてきた。
 だから、"電子書籍" をめぐる "ソーシャルメディア" にせよ、マーケティング・ジャンル、さらには "アラブの春" から "ウォール街占拠デモ" に至る政治的ジャンルまで視野に入れておこうという意識が働いていた。
 恐らく、"ソーシャルメディア" についてのこうした "ジャンル横断的" な関心の向け方に問題はないだろうと今でも考えている。それというのも、人間のコミュニケーション( "ネットワーク"、"つながり" )にとっては、便宜的とさえ思われるジャンルという仕分けなぞは低い壁なのであり、これを超えて共通するものが多々あると直感しているからかもしれない。
 それよりも、もし、"ジャンルの違い" ではないものを想定するとするならば、それは何だろうか? 現在、人間のコミュニケーションのあり方に多大な影響を及ぼしているものとは何か? こちらの方がはるかに重要な問いのはずだと。
 そんな問題意識が、"ソーシャルメディア"の"威力!" へと目を向けさせてきたのだろう、と振り返ったりしている。

 こうした思いを抱いていたところ、まさにその意を強めさせるようなサイト記事に巡り合った。
 "ウォール街占拠デモ" と、マーケティング・ジャンル での事象だというべき "スタートアップ企業"(創業したばかりのベンチャー企業のこと)とをいわば "ジャンル横断的" に考察した下記引用のブログ記事である。
 "ソーシャルメディア" を介して活性的に展開する両者に、通底する類似点、共通項を見出そうとする踏み込んだ視点には、まさに共感を覚えざるを得なかった。ジャンルが異なるのだから一緒にすることにはムリがある......、と事なかれ的に考えずに、こうした視点を持ち込むことによってこそ "すべての真相" が見えてくる、つまり、"ウォール街占拠デモ" の真相であり、マーケティング・ジャンル での事象での真相、そして "ソーシャルメディア" の "威力!" に関する真相が解きほぐされてくるはず、と意を強めたわけなのである。
 下記叙述の中では、特に<【1】敢えて目標(ビジネスモデル)を明確にしないことでユーザーベースを拡げることに成功>という解釈は、"ウォール街占拠デモ" の "アキレス腱" とも評されてきただけに、目を見張るものがあった。

 企業の "ソーシャルメディア" 対応で、"炎上" 騒動などを引き起こしてしまう担当者、マーケターには、何か共通した難点がありそうであるという話を進めている。昨日の分の≪続≫という位置づけとなる。
 昨日と同様、<武田隆 (著)『ソーシャルメディア進化論』ダイヤモンド社 2011.07.29>をレビューするかたちで進める。
 ◆参照 ソーシャルメディア"炎上"原因の"見える人"と"見えない人"/"スモールワールド"! ( 当誌 2011.11.07 )

 昨日は、"ソーシャルメディア(SNS)" への企業サイドからの対応の成否は、以下の点に掛かっていると結んだ。
元々、人と人との "つながり" の現象を "質的に理解する" ということは、体験的 "実感" が理屈に勝るものと思われる。この点は、インターネット上のネットワークでの人と人との "つながり" においても変化したとは考えにくい。
 冒頭で触れた "ソーシャルメディア" での "炎上" 問題発生に対する警戒にしても、小手先でのテクニック習熟よりも、人と人との "つながり" の現象を "質的に理解する" というこまめな体験的 "実感" の、その蓄積こそが王道なのだと了解されそうである。
>( 当誌 2011.11.07 )
 前掲書では、これを "ネットワーク" 概念のひとつである "スモールワールド" という視点で補いつつ、<スモールワールドに「住む人」と「住めない人」の違い>、それが "ソーシャルメディア" の本質が<見える人と見えない人>との違いとなって表れる、と述べられていたはずだ。

 これらを、より単刀直入に言い換えればどうなるのか? 企業での実践的指針としては、むしろそうしたものこそが探られているのかもしれない。そこで、結論的に端的に言うと、次のようになりそうである。もちろん、昨日述べた事柄を前提にしての話だ。

ソーシャルメディアで失敗する人、スモールワールドに住むことができず、ネットワークの影響が「見えない人」の世界観は、「つながりを軽視する」という態度に集約できる>(下記引用部分より)

 そして、「つながりを軽視する」という態度とは、<消費者を受動的で操作可能な存在としてとらえる消費者観>そのものであり、<個人を大衆としてひとくくりにして、単発的な一方向の施策で、それを戦略的にコントロールしようとする>態度だとされる。
 この克服は、一見何でもないことのようにも思えるが、実は、かなり "難易度" が高いハードルだと考えるべきなのである。
 それというのも、こうした<消費者観>や<戦略的コントロール>方法は、つい最近までマーケティング領域で金科玉条とされていた<20世紀のマーケティングのあり方>だったからなのである。

 つまり、より画期的な意識改革とトレーニングを進めない限り、"従来型マーケター" の多くは、消費者との「つながりを軽視する」という態度を打破できないと推測される。
 付け加えて言うならば、しかも、こうした "ソーシャルメディア" 対応というものは、一度、頭で認識すれば事足れりというものではなかろう。ルールを設ければ済むわけでもないはずぶある。
 "ソーシャルメディア" 対応の現場では、ビミョーな案件が溢れ、かつスピード感が要求されるものばかり......。したがって、まるでスポーツプレーのような迅速な振舞いと判断力が要求されるはずだ。とすれば、すべての対応スキルは "付け焼刃" では済まず "板に付いた" ものでなければならない......。

 
ソーシャルメディア
進化論

武田 隆 (著)
 "ソーシャルメディア" という人と人との "つながり" がクローズアップされたネットワーク・メディアを理解しようとする時、どうしても避けられないテーマとして、"つながり = ネットワーク" というもの自体の "不思議な現象・構造" という面がありそうである。

 ところで、現代社会のように<「ここがダメなら、あそこ」「あそこがダメなら、こっち」というふうに、人間関係に関していつでも代替可能性を考えられる>、そんな<流動性>( 宮台真司 著『 日本の難点 』幻冬舎新書 2009.04.15 )の激しい社会で生きていると、人と人との "思わぬつながり具合" に無頓着となりがちであろう。
 たしかに、こうした風潮が支配的であることは否めない。しかし、現在、日常生活で繰り広げられている人間関係、人と人とのつながりは "過剰な流動性" の中でホントに "無きに等しいもの" となっているのであろうか......。支配的な風潮とは、ひょっとしたら現代環境が仕掛けていそうな、人と人との "つながり" における "ワナ!" による産物なのだと振り返ってみることも、あながち無意味ではなさそうな気がする。

 人と人との "つながり" 現象は、たとえ当事者が目先の関心事で意識に上らせることがなくとも、意外と "粛々と" 浸透していたりして、<「世間は狭いね!」>という結果に遭遇させられることもまた事実としてありそうだからだ。今日の関心事は、この周辺の事実に関わることになる。
 話題の核心に迫るためには、多少極端な典型的事例の方が分かり易い。そこで、"ソーシャルメディア" の事例で否応なく関心が高い "炎上" 問題に目を向けることになる。

 "ソーシャルメディア" ジャンルに造詣が深い 武田隆 氏 はその最新著書( 武田隆 (著)『ソーシャルメディア進化論』ダイヤモンド社 2011.07.29 )において、実に興味深い叙述をしている。話はこうだ......。
 "ソーシャルメディア" ジャンルでも、このジャンルでひと際<相性のよいテーマ>である<「子育てコミュニティ」>に、<何かしらの「口コミサービス」を利用したと思われる>企業サイドからの "宣伝" 主旨のエントリーが "乱入(?)" したのである。もちろん、"炎上" もどきの事態が生まれる......。

 "ソーシャルメディア" とは、ユーザーが情報を発信し、形成されていくメディアのジャンルの、その総称のことであり、そこで培われる "ユーザー同士のつながり" のあり様に特徴が見出されるところから今大いに注目されているわけだ。
 その特徴としては、"友達関係" が代表的であり、その関係のあり様によっては "コミュニティ" 的性格が強いものもあるとされる。そこから、"口コミ" としてのコミュニケーションの影響力、伝播力が強いことも認識され、マーケティング領域においても大きな関心事となっている。

 ただ、一概に "ソーシャルメディア" と括られるものの中には、いろいろなメディアがあり、それぞれが異なった展開をしているのも事実だ。
 今回注目してみる "ソーシャルメディア" は、"mixi、facebook" と同じ種類の "SNS[ social networking service ](交流サイト)" の一つであり、つい最近 "日本上陸" となった "Linkedin(リンクトイン)" である。
 あえて注目してみる理由は、これまでの "SNS" とはやや性格が異なっており、"ビジネス向け・職業人向け" に特化して位置付けられているからだ。"ソーシャルメディア" 全体の理解のためには、こうした異質な性格のメディアをも視野にいれておくことが必要だと思ったわけである。
 その概要は、以下のニュース記事からも窺い知ることができる。

―――― < ビジネス向け交流サイト(SNS)大手の米リンクトイン(カリフォルニア州)は20日、日本語版サービスを開設し日本市場に本格参入したと発表した。......リンクトインは無料が原則で、仕事上の人脈づくりに特化したSNS。会員登録時に職歴や学歴、資格のほか著書や出願した特許などを細かくプロフィルに公開する。名刺代わりに仕事上のつながりがある人を「知人」として登録できる。  知人を通じて「知人の知人」を紹介してもらい人脈を広げられる点が欧米で人気になっている。企業が採用に役立てるほか個人が事業上のパートナーを探して連絡を取るなどの用途を想定している。......>米SNS大手リンクトイン日本参入 ビジネス需要に的 /日本経済新聞/2011.10.20

 "仕事上の人脈づくりに特化した" という点、"人材採用" や "業務上の提携" などといった "ビジネス・ニーズ"が焦点化されている点(いわば "B to B" !)、そこが興味深いところであるに違いない。
 こうなってくると、"ソーシャルメディア" で注目すべき点は、その基本的性格における "コミュニティ" 性だけではなく、機能面での "ネットワーク" の "効果的拡大拡充" という重要な側面も外すことができないことが認識させられる。

 この辺の事情を考察するに当たっては、下記のサイト記事は大いに参考となった。

 昨日に引き続き、<ソーシャルメディア上で友達登録100 人以上を対象とした「SNS100 友調査」(by dentsu)>の結果に基づき、実際の "ソーシャルメディア" の姿を垣間見てみたい。
 昨日は、ザックリとした観点、つまり リアル社会での "リアル・コミュニティ(自生的コミュニティ)" と、ネット社会での "ソーシャルメディア" 上の "ニュー・コミュニティ(バーチャル・コミュニティ)" とを対照させつつ、"コミュニティ" としては "後者" が優先されつつある傾向を確認した。

 ◆参照 "ソーシャルメディア"での"友達意識"が照らし出すもの!/電通「SNS100 友調査」 ( 当誌 2011.11.04 )

 昨日は、やや "希望的観測" に傾いた書き方をしたかに思われるが、今日は、やや "醒めた見方" で検討することにしたい。
 "醒めた見方" と言えば、既に、調査結果自体においてもそれが表明されていたことに気づかされるわけである。

―――― <5. 「友達が多い」ことは、現実生活での充実感=「リア充」には必ずしもつながらない

 「現実生活が充実しているか?」という質問に対して、友達数が100~149人で13%、150~299人で14%、300人以上で21%の人が、「現実生活は充実していない」と答えました。>ソーシャルメディア上で友達登録100 人以上を対象とした「SNS100 友調査」を実施 ~ 友達登録 平均256 人、ミニブログでは6 割と「ネットだけの交流」~/dentsu NES RELESE/2011.11.02


 この部分は、<「現実生活」>という言葉の解釈によっては、「現実生活は充実していない」から "ソーシャルメディア" 上で友達数を増やしている、と受け取れないこともない。
 が、ここでは、"ソーシャルメディア" 上で友達数を増やしている者ほど「現実生活は充実していない」と答えた比率が高かったと解釈すべきのようである。
 [ 記事後半の【調査概要】での解説 ]でも、<友達が多いことは、必ずしも現実生活での充実感にはつながらないようです。同質さに依りがちな関係は、快適な一方、現実生活ほど「摩擦」や「手応え」が感じられないからかもしれません。>と解説されているからだ。

 こうした "醒めた見方" が生じる理由は、なるほど<同質さに依りがちな関係>であるところから来るのかもしれない。
 そこで、この<同質さ>に焦点を合わせて "ソーシャルメディア" 上の "ニュー・コミュニティ(バーチャル・コミュニティ)" を見つめ直すと、以下のような[ 記事後半の【調査概要】での解説 ]部分がクローズアップされる。


 "ソーシャルメディア" は、しばしば "つながり" というキーコンセプトで了解されている。また、その "つながり" は "コミュニティ" としての性格が色濃いことも指摘されているところだ。
 リアル社会(←→ネット社会)での家族・地域社会・学校・職場などの "リアル・コミュニティ(自生的コミュニティ)" が、その凝集性や吸引力を弱めているだけに、ネット社会での "ソーシャルメディア" が "ニュー・コミュニティ(バーチャル・コミュニティ)" として熱い眼差しで見られているとしても不思議ではない。

 だが、"ソーシャルメディア" とはどんな特色を秘めた "コミュニティ" であるのかについての詳細は意外と語られることがないようだ。
 "コミュニティ" の基軸とされてきた "血縁・地縁・職縁" に替わり、どんな基軸が働くことで、どのような特色や性格が付与されるものなのか......。

 この点についての考察は、マーケティング云々の領域の課題以前に、現状の社会が、人間社会の原点である "縁" を喪失した "無縁社会" に急接近しているだけに、もっと関心が寄せられて良さそうだと思われる。

 こうした文脈において、"ソーシャルメディア" 参画者たちの(友達)意識についての調査結果が、下記引用記事のごとく発表されていた。詳細については、下記引用記事並びに当該サイトを参照していただきたい。
 その調査結果を、"コミュニティ" 問題に焦点を合わせて眺めてみると、何と言っても次の点に注目せざるを得ない。

<ソーシャルメディアで参加しているコミュニティの種類は、トップが「趣味」つながりの65%、続いて「学校」の54%、「地元や家族」の40%となりました。現実生活におけるコミュニティを、必ずしも現実生活だけのつながりではないコミュニティが上回る結果になりました。>

 現在の生活周辺や社会事象を思い浮かべれば周知の事実となり始めているかに思えるが、"ソーシャルメディア" 参画者たちにとっての "コミュニティ" 選択が、"リアル・コミュニティ(自生的コミュニティ)" よりも、ネット上の "ニュー・コミュニティ(「趣味」つながり)" へとシフトし始めているとする点は、これが調査結果であるだけに着目に値すると思える。
 リアル社会で、"つながり"="コミュニティ" の生彩が乏しいが故に、<共通の「趣味・関心事」等で結びつき、お互いの同質さを確認しあうこと>を出発点としたネット社会での "ニュー・コミュニティ" 参画へと向かっているかのようである。
 ただ、この "ニュー・コミュニティ" には "自生的コミュニティ" が備えていた "直接的接触" や "暗黙の了解" などが無いため、<ネットでの振る舞い方>については "気を使う" 部分も少なくないようである。<「なるべく空気を読む」が44%と一番多くなりました。>とある。"同質性" キープのための "気遣い" と言ったところか。
 ふと思うのは、家族という "コミュニティ" には、"血縁" という "自生的" な関係に基づく "親子関係" と、"愛情と契約" という "選択的" な関係である "夫婦関係" とが重なっているという事実だ。
 ネット社会での "ニュー・コミュニティ" を、"気遣い" も不可避の "夫婦関係" 的 "コミュニティ" に譬えてみたりして......。

 以上のほかにも、この調査結果から考察可能なポイントは多々ありそうだ。いずれにしても、生活現場を含めた世界が、ますますリアル社会ネット社会との "二重化" を強め、人と人との "つながり" の原点である "コミュニティ" の "再構築" が始まっているかのようだ......。


 人間は理性的である反面、度し難い "非合理性" を秘めている点は、日々報じられる不祥事のニュースに接していると嫌でもよく分かるものだ。と言って、自身が仕出かす "非合理" な行動には中々気づけないのもまた人間の非合理性の表れなのかもしれない。
 下記の引用記事のとおり、結局、<われわれは自分で信じたいほど合理的な存在ではない>であるし、<われわれは、つまずく原因を知っていてもなお、転んでしまうようにできている>、そんな存在のようである。
 こうした "非合理性" をもたらすのは、<自信過剰バイアス>などの様々な "バイアスや盲点" が潜伏している(ビルトイン?されている)からだそうだが、困ったことに、これらは<人間の愚かさの症状ではない。それらは人間性の本質的な要素であり、長い進化を遂げてきた脳が持つ、避けがたい副作用といえる。>もの、<このような習性は事実上、修正不可能>と見なされる......。

 こうなると、"打つ手" はないかのようでもある。
 しかし、ふと振り返ってみると、様々な "バイアスや盲点" が威力を発揮してしまう状況というのは、"振り込め詐欺" を例に挙げるまでもなく、個々人が閉ざされた "孤立" 環境でいろいろな情報を処理して対応する場合に目立つのではなかろうか。
 閉ざされ "孤立" した環境では、情報に対する判断が頼るものは自身の思考の習慣・習性以外にはないだけにそうなりがちなのかもしれない。

 また、一般的に<人間は情報を丹念に評価したり、関連のある統計データを調べたりしない。>という、そんな日常の情報処理姿勢にも少なからぬ問題がありそうだ
 たまたま、昨日は以下のようなことを書いた。

<もちろん自身もそうであるが、現代の環境に慣れ過ぎたわれわれは、"情報" の獲得にあくせくし、それが叶えば一件落着、事足れりとなってしまいがちだ。"情報" 自体の真偽や、いやそれ以前にその "情報" の意味そのものが "理解=納得" できているのかどうかは、無意識にスルーされてしまっているかのようである......。>"バイラル・ループ"をも駆動するソーシャルメディア!平凡ながら正攻法伝播力!( 当誌 2011.11.02 )

 <検索主義的ネット環境>下では、このような "習性" が身についてしまうばかりか、助長されさえするかのようだ。

 こうした実情を思い浮かべる時、いささか唐突かもしれないが、"ソーシャルメディア" がこうした状況への "解毒剤"(チェッカー?)になりそうか......、と思ったりする。
 いや、"ソーシャルメディア" のユーザーたちの "「社会とつながりたい」" という思いの中には、目まぐるしく飛び交う情報群を目の当たりにして、"孤立" と "丸腰" の状態では余りにも不安に過ぎるとする感覚が働いているに違いなかろう
 思えば、生活現場での身の回りに様々な "リアルなコミュニティ" (家族・地域社会など)がアクティブであったかつての時代環境では、想像できなかった "個々人の孤立化" 状況( "無縁社会!" )が、現状では当たり前のようになってしまった......。
 こうした "孤立化" 状況は、 "孤独感・寂しさ" という人間の感情を生み出すが、それ以前に、情報認識やそれに基づく対応という次元での "ヒューマン・エラー" を引き起こしがちだという問題がさらに要注意だと思われる。
 現状の"ソーシャルメディア" が、果たして、人間が閉ざされ "孤立" した環境で増幅させがちな<自信過剰バイアスや盲点>を抑制しているかどうかは分からない。だが、かつてのコミュニティの "疑似代替物" としての機能を果たす、あるいはその可能性を十分に備えた空間であることは間違いなさそうだ。


 
バイラル・ループ
あっという間の急成長にはワケがある
 "バイラル・ループ" とは、<インターネット上でブログやツイッター、ユーチューブなどのソーシャルメディアを経由して、情報がウイルスのように伝播していく現象のこと>《 佐々木俊尚「まえがき」/『バイラル・ループ』アダム・ペネンバーグ (著), 中山 宥 (翻訳) 講談社 (2010/9/25) 》だという。
 "ソーシャルメディア" による強力な伝播力については、これまで、勝手に "レバレッジ効果" にたとえたりしてきたが、むしろ "バイラル(viral)= ウィルス感染的 " と表現した方が当を得ていると痛感した。
 また、製品やサービスに関する「口コミ」を意図的に広め、低コストで効率的に商品の告知や顧客の獲得を行なうマーケティング手法のことは "バイラルマーケティング" と呼ばれている。
 マーケティングもさることながら "ソーシャルメディア" の理解を深めるためには一読に値するかと思われる。

 ◆参照 VIRRL LOOP.jp

 ところで、今回、着目したいのは、この "バイラル・ループ" 現象そのものではなく、それを引き起こすとされる "ソーシャルメディア" の、その "特質" について遡りたいと思う。別に事新しいポイントではないが。
 "バイラル・ループ" 現象をも喚起する "ソーシャルメディア" での "口コミ" 機能は何ゆえに効果的なのか、というありふれたテーマであり、その答えもまたありふれた事実、"つながり" という "コンテキスト(文脈)" に担保された "情報" であるからだ! に尽きる。
 ただ、なぜ、こんな "再確認" をしてみる気になったかという点なのである......。

 今や "ソーシャルメディア" は、ネットユーザー個々人の主要なトレンドの場であり、もちろん企業によるマーケティング活動の主戦場となり、そして社会的ムーブメント( アラブの春、OWS運動 )醸成の坩堝(るつぼ)としての器にもなっている。
 そんなことから、この "ソーシャルメディア" 関連のサイト記事をレビューしつつ、"ソーシャルメディア" という "新しい革袋" とそこに盛られる "新しい酒" の "新しさ" の実態を理解しようとしているところだ。

 "ソーシャルメディア" は個々人の生活の現場から "自生的" に形成される点に特徴があると言われている。ただ、個々人は抽象的な場で生活しているわけではないので、"ソーシャルメディア" に盛られる内容は、周囲の社会環境から様々なものが流入し影響を被っていることは当然の成り行きであろう。
 つまり、"ソーシャルメディア" 自体が周囲の社会環境から受ける影響の問題なのである。とかく現在、"ソーシャルメディア" が放つ影響力ばかりに目が向けられがちなのかもしれないが、実は "ソーシャルメディア" 自体が何によって影響を受けているのかという問題に目を向けることも重要な課題だと思われる。
 言い換えれば、"自生的" な "ソーシャルメディア" の側面と併せて、"ソーシャルメディア" が影響を被っているであろういわば "被拘束面" をも考察することが不可欠な課題ではないかという点なのである。
 すでに、企業による "ソーシャルメディア" 対応では、"ソーシャルメディア" を効果的に取り込む意図で、こうした考察がアクティブとなっているはずだろう。もちろん、稚拙な "やらせ" 的アプローチとは異なった次元の話である。

 こうした問題意識に関係して、「世の中ゴト×仲間ゴト×自分ゴト」の法則 ソーシャルメディア時代の戦略PRと題する興味深いサイト記事(「世の中ゴト×仲間ゴト×自分ゴト」の法則 ソーシャルメディア時代の戦略PR 本田哲也/ブルーカレント・ジャパン代表取締役/株式会社ビデオリサーチインタラクティブ/2011.10.26)に関心が引き寄せられた。
 結論から言うならば、"ソーシャルメディア" が上位の社会環境から被っているであろう "被拘束面" を焦点にしつつ、上位の社会環境レベルにおいて<世論をつくり出す「空気づくり」を行う>といった「戦略PR」※ 注.)の手法を駆使することによって、間接的に "ソーシャルメディア" を通じた商品販売を活性化する、と理解されよう。

 以下、同記事の主旨が追える範囲内での引用をさせていただくことにする。

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